返回信息流当事者1:今川義元
当事者2:織田信長
当事者3:
時代:戦国時代
年代:1560年(永禄3年)5月19日
要約:上洛を目指す今川義元が、織田信長の奇襲に合い落命。その後の時代の流れは織田信長に傾いて行く。
内容:
当時の時代状況
駿河?遠江の太守今川義元は、東に相模の北条氏康、北に甲斐の武田信玄と鼎立の状況であったが、天文23年(1555)太原崇孚の斡旋により武田信玄?北条氏康との間に政略結婚を媒介とした甲相駿三国同盟が成立。相模?甲斐の驚異が無くなると義元は、西上、上洛指向を強める。その一環として三河国の領有権確保のため、尾張国の鳴海城などを攻略する。
一方の織田信長は、天文21年(1552)3月9日家督を相続後、着々と尾張統一を進め、永禄2年(1559)3月岩倉城の織田信賢を攻め滅ぼし、念願の尾張統一を成し遂げた。
今川義元の西上
永禄3年(1560)の5月12日、駿河守護大名今川義元は、2万7千の大軍を率いて駿府を出馬した。
義元は時に45歳、西上の野望を果たさんが為である。5月18日義元は、尾張に進入し、大高?鳴海の城を守らせ、松平元康に丸根の城を攻めさせ、朝比奈泰能らに鷲津の砦の攻撃を命じ、自ら5千の本陣を率い、沓掛城に入った。この情報が織田信長の居城清洲城に伝達されたのは、5月18日の夜のことであった。
「信長公記」によると、その夜軍議は開かれず、信長は重臣達と雑談を交わし、夜半になってから諸将を帰宅させたとある。「桶狭間合戦記」には清洲城で軍議が開かれ、林通勝(秀貞)らの重臣は清洲城での籠城を主張し、これに対し信長は出撃の主張を譲らなかったとある。
織田家にとって今川との戦いは最重要課題であるので、軍議が開かれなかったとは考え難いので、仮に軍議が開かれなかったとしても、重臣達は個人的に信長に、籠城策を進言したのではないだろうか。
重臣達が籠城策を主張したと考える根拠は、籠城策が一番無難な策であるからである。清洲城は東に五条川が流れ、城そのものが堅牢な上に、周りには岩倉城?那古野城?勝幡城?守山城?末森城などの支城もあるので、十分今川軍の攻撃を防ぐことができる。
これに対し信長は、籠城すれば城が持つかもしれないが、強敵と四つに組んで戦うことは負けない可能性は高いが、勝利する可能性はゼロである。今川勢が本当に清洲城を攻めるのかという疑念もある。もし敵が庄内川の線までしか進出せず、そこで態勢を立て直して清洲城を攻めるという二段階攻撃に出れば、庄内川以東を無為に敵に与える事になり、清洲城の守りも危なくなる恐れがある。義元は天文17年(1548)の小豆坂の戦いで織田信秀を破ったときも、引き続き安祥城を攻めないで、矢作川左岸の岡崎城で態勢を立て直してから、翌年にこれを攻略している。この様な事から信長は奇襲作戦を採用したと思われる。
時代劇では、ここで信長は幸若舞「敦盛」の謡の一節
「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり、
一度生を受け、滅せぬ者のあるべきか」
を、謡いながら舞い、舞終わるやいなや、小姓7~8騎を連ねて出馬した。しかし信長が熱田神宮に参拝し戦勝を祈願する頃には、1800程の軍勢が集まったという。という場面をテレビなどで見られた方も多いと思いますが、このような劇的な場面があった事を私も信じたい。
桶狭間の合戦
1800の手勢を率いた信長はが、熱田を南に進み、善照寺で勢揃いしたとき、忍びの者が沓掛を出て西の大高城へ向かって移動する今川義元の本隊が、何故か少し南の桶狭間の方に向きを変え、その途中の田楽狭間で小休止している、との情報を伝えてきた。
田楽狭間は、狭い窪地であるから、5000に余る義元の本隊はどうしても、縦隊に成らざるを得ない。その縦隊に伸びきった弱点を衝いて斬り込めば、義元を討ち取れると確信した信長は、中島砦を発ち、馬の首を立て直して疾走したが、相原の中間地点で下馬し、旗指物も打ち捨て、1800の将兵と一丸となり、田楽狭間の背後にある太子ヶ嶺に分け入った。
今川の本隊は、信長の潜入したことなど夢にも知らず、義元は度重なる勝報に喜び、近在の神主が持参した祝い酒を飲み、ほろ酔い機嫌であった。
丁度その時、天空が黒雲に覆われ、下界が暗くなったかと見る間に、大粒の雨が降り出した。今川勢は大雨を避けて、木陰に散らばっていた。その大雨が止みかけた時(午後2時頃)、信長は直ちに突撃の命令を下し、全軍が今川義元の旗本めがけて襲いかかった。
不意を衝かれた今川勢が狼狽え廻る中を、信長軍の若武者服部小平太が義元に斬りかかったが、義元に小指を噛みきられ、倒れ伏してしまった。その間隙を縫って信長の近臣毛利新介が、義元を切り伏せ首級をあげた。
桶狭間の戦いの意義
それまでの戦争は、敵の頸をいくつ取ったかが恩賞の重要な評価基準であった。その基準によれば今川義元の頸を取った毛利新介が一番の功労者である。しかし、信長は一番手柄を田楽狭間で休息する義元の情報を伝えた者に与えている。つまり信長は情報に対して褒美を与えたのである。この戦は奇襲作戦であるので、信長が義元に勝ったのは奇跡であるとの見方もあるが、情報戦で勝利を得た信長が実際の戦にも勝利したのは、ある意味では必然であった。(情報を有効に利用できるのは天才だけだが???)
信長はこの一戦により今川方を再起不能にし、領国尾張統一を完全なものとした。さらに翌年には松平元康と同盟を締結し、東方への憂いを排除し、天下布武の第一段階である美濃攻略へと向かって行く。
这是一条镜像帖。来源:北邮人论坛 / japanese / #24162同步于 2008/6/10
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桶狭間の戦
prating
2008/6/10镜像同步0 回复
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