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这是一条镜像帖。来源:北邮人论坛 / japanese / #24726同步于 2008/6/20
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関ヶ原合戦

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当事者1:徳川家康 当事者2:石田三成 当事者3: 時代:戦国時代 年代:1598年8月18日~1600年9月15日 要約:戦国時代の幕を閉じる合戦。家康の老獪で用意周到な作戦に踊らされる三成。 内容: 秀吉の死 慶長3年(1598年)8月5日夜半、密かに徳川家康と前田利家が伏見城に招かれ、重症の秀吉の枕辺で死後の収拾策を哀訴された。 一、朝鮮在陣の将兵は、死後速やかに帰国させよ。 一、五大老、力を合わせて秀頼を豊臣家惣領として盛り立てて欲しい。 一、朝鮮からの帰国が完全に終わるまで喪を発表せず、密かに仮埋葬せよ。 二大老に秀吉は三つの項目を託し、家康に遺言状を渡した。この遺言状は毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝、前田利家、徳川家康の五大老に宛てられたものであった。 秀より事 なりたち候やうに 此かきつけの しゆ(衆)としてたのミ 申し候なに事も 此不かにはおもい のこす事なく候 かしく八月五日 秀吉印 いへやす ちくせん てるもと かけかつ 秀いえ万いる返々(かえすがえす)秀より事 たのミ申し候五人 の志ゆ(衆)たのミ申し候 いさい五人物ニ申わたし候なこり おしく候以上(原文) 太閤秀吉は死を前にして、恥も外聞もなく取り乱してひたすら我が子秀頼の行く末を案じ、せつせつと生への執着をさらけ出した遺言状である。一介の百姓から身を起こし、史上最高の栄誉と地位を獲得し、栄華を欲しいままにした秀吉である。独り勝ち得た天下の覇権を、何が何でも幼い秀頼に委ねようと断末魔のあがきを見せる秀吉の最期は、俗人の老醜をさらけ出していた。 秀吉は、主君織田信長の死後、彼の子息達を追い落とし、信長後継の地位、さらには子息達の命さえ奪った事を忘れていなかったのであろう。織田信雄?織田信孝は馬鹿ではなかったであろうが、老獪な秀吉の敵ではない。孫の三法師を正嫡として織田家を簒奪した秀吉は本能寺の変後にとった自分の行動を、家康ら有力家臣に重ね合わせたのならば、自分の死後に起こるべき必然を予測できていたのであろう。ならば必然に立ち向かう秀吉の行動も又、一人の父親として当然の行動であろう。 秀吉は二大老に遺言状を渡して8月18日午前2時頃、62歳の生涯を閉じた。そして秀吉がもっとも信頼していた前田利家も秀吉の後を追うように、翌慶長4年3月3日、62歳で世を去った。 秀吉末期の組織 秀吉死後。豊臣家は淀君?秀頼を後継者として、次の五大老、三中老、五奉行によって政務を担当した。 五大老 江戸内府 徳川家康、加賀大納言 前田利家、安芸中納言 毛利輝元、備前宰相 宇喜多秀家、越後宰相 上杉景勝 三中老 生駒雅楽頭親正、中村式部少輔一氏、堀尾帯刀吉晴 五奉行 浅野弾正少弼長政、増田右衛門尉長盛、石田治部少輔三成、長束大蔵大輔正家、前田徳善院玄以 この五大老、三中老、五奉行を職制の筆頭として、事実上政務の実験を掌握したのが家康である。 石田三成の蟄居 石田三成は、太閤秀吉在命中のころ、五奉行の一人として度々越権を犯し、逆威の振る舞いが多かった(当然この見解は徳川方から見たもの)。大名諸侯(武断派)より三成の悪評を、家康も時折聞き及んでいた。 慶長4年(1599年)3月、池田三左衛門尉輝政、福島左衛門大夫正則、細川越中守忠興、浅野左京大夫幸長、黒田甲斐守長政、加藤肥後守清正、加藤左馬助嘉明ら武断派の諸侯は密かに相謀り、 「淀君をたてて専横の振る舞い多く、武断派を阻害する三成を謀殺して日頃の鬱憤を晴らしたい」 と、家康に相談を持ちかけた。相談を受けた家康は、しばし思案していたが 「各々方のお気持ちは痛いほど分かるが、先君没後間もない今、ここで再び戦乱を招くような事があっては、先君に対しておそれ多い。決して穏当な措置とは思えない。しばらく行動を慎んでもらえないか。私が一番妥当な措置を講じて善処したい。しばらく私に任せて貰いたい」 家康はいきり立つ武断派を宥め賺して、伏見城を引き上げて貰った。ところが数日経たぬうちに、今度は石田三成が僅かな共侍に守られて大阪城から伏見の家康の元へお忍びで訪れた。敵意を持つ三成の来城を期に謀殺してしまえば一件落着であるが、”窮鳥懐に入れば???”の喩え、 「是非かくまって欲しい」と救いを求める三成を匿ったのである。 「このままではお命が危ない。この危機を脱するには奉行職を辞して、近江の佐和山城に移られてはどうか、途中の警護のため次男の結城秀康に瀬田まで送らせましょう」 この措置は、文治派の耳にも届き、家康の措置は、淀君?秀頼公を孤立させ、天下を独り占めしようとする魂胆では???。と家康をなじる噂もあった。特に三成の佐和山移封に不満を漏らしたのは五大老の上杉景勝であった。奥州?越後の連合軍を引き連れて上洛して来るという噂が京の町に流れ、町方衆は不安におののく有様であった。 町衆は、「こんど戦が起これば京都の高台院におられる秀吉公の正室お寧々さまと、側室の淀君さまとのいくさになる??」「なんの、なんの。秀頼様は太閤様のお胤でのうて三成様のお胤だそうな。そうなると三成様は、是が非でもお寧々さまを敵に回して、お寧々の方さまを援けておられる家康公、武断派の面々と真っ正面から決着を付けねば済むまい。このたびの女同士の争いから天下がひっくり返るような騒動が起こるかもしれない。秀吉様も天下人といわれたおひとだが、なくなられても罪深いお方よのう。それにしてもおなごの妬みは恐ろしいものよ。桑原、桑原」と噂しあったという。 この様な話だけだと、家康は度量が大きさと、女同士の嫉妬が豊臣家崩壊の遠因との印象を受ける。強ち間違いとも言えない話であろうが、上記は徳川家家臣の資料が元であるのでそれを差し引く事をお忘れなく。 事件の決着 「看羊録」によれば安国寺恵瓊が三成の窮状を助けるために、毛利輝元に説いて家康に和議斡旋を要請させたとしている。そして家康もこれに同意したという事、さらに他方では奉行の長束正家が三成の方を説得し、家康に対して謝罪させることによって、問題の解決の方向に導いたとしている。 この事件の十日ほど後の閏三月九日、家康ら五大老は次のような連署状をもって、蜂須賀家政と黒田長政に対し、蔚山籠城戦のおりの援軍の働きには全く落ち度の無かったことを確認し、また早川長政に対しても没収された豊後府内(大分市)の城を還付する旨の決定を下した。 朝鮮蔚山表、後巻の仕合わせ、今度様子聞き届け候の処、御目付衆言上の通り、相届かざる儀と存じ候間、新儀の御代官所、前々の如く返し付け候、ならびに、豊後府内の城も早川主馬(長政)に返し付け候様に申し付け候、然る上は彼表において其方落度にあらざるの段、歴然候間、その意を得らるべく候、恐々謹言 {慶長四年}閏三月十九日 利長 輝元 景勝 秀家 家康 蜂須賀阿波守殿 黒田甲斐守殿 この五大老連署の裁定文書は、蔚山籠城戦の後に秀吉の下で執行された昨年五月の処分をめぐり、再吟味の結果、その誤りを認めて前の処分を取り消すとしたものである。この再審裁定が三成襲撃事件を経て、三成が佐和山へ引退した直後に下されていることに留意が必要である。この資料より関ヶ原合戦は単純に豊臣対徳川の戦いではなく、豊臣家臣団の分裂としての様相が濃厚であり、豊臣家臣団の一方に徳川家康が便乗したというのが真相のようである。 上杉攻め 慶長5年(1600年)3月、会津の上杉景勝が石田三成と結託して、家康に反旗を翻す不穏な動きをしているという情報が家康の耳に達した。その真偽を確かめるため、家康の名代として伊奈図書頭を使者に立てて会津へ派遣した。 伊奈は、使者の任務を果たして6月12日、伏見へ帰城した。報告によると五大老の一人である景勝は、文治派の支持者であり、三成に同情し、万一、三成の文治派が事を起こすような事があれば、豊家の武断派と対決する構えを見せている。したがって、一朝ことがあれば三成の傘下に加わり、即刻挙兵し、上洛する気配を示している。という報告であった。 大阪にいた家康は、図書頭のからの報告を聞き、6月16日伏見城に帰り、その日の評定で「天下を乱す上杉殿を征伐しよう」と断を下し、全国の大名に会津攻めの布を出した。家康にとっては大きな賭であった。果たしてどれだけの諸侯が集まるかどうか全く未知数であった。結局関東下向の家康に従ったのは次の通りである。 織田有楽斎、子息河内守、山名禅高、金森法印長近、同出雲守可重、山岡道阿弥、羽柴越中守(細川忠興)、子息与一郎、京極侍従(高知)、池田三左衛門(輝政)、同弟備中守、同吉左衛門、有馬法印、子息玄蕃頭、伊賀侍従、福島左衛門大夫(正則)、子息刑部少輔、舎人掃部、浅野左京大夫(幸長)、徳永式部卿法印、子息左馬助、蜂須賀長門守、黒田甲斐守(長政)、加藤左馬助(嘉明)、藤堂佐渡守(高虎)、佐久間河内守、石河伊豆守、赤井五郎、岡田助左衛門、丹羽勘助、中川半左衛門、三好為三、大島雲八、長谷川甚兵衛、金松又四郎、三好新右衛門、船越五郎右衛門、平野九左衛門、池田備後守、子息弥右衛門、佐々淡路守、本多若狭守、落合新八、森宗兵衛、中村又蔵、能勢宗左衛門、清水小八郎、柘植平右衛門、佐久間久右衛門、舎弟権八、戸川肥後守、宇喜多左京亮、野間久左衛門、伊丹兵庫頭、藤堂宮内少輔、生駒讃岐守(親正)、田中兵部少輔名代中村彦左衛門、山内対馬守(一豊)、堀尾帯刀(吉晴)、子息信濃守、一柳監物、津田長門守、同小平次、富田信濃守、古田兵部少輔、稲葉蔵人、古田織部正、市橋下総守、九鬼長門守(嘉隆)、桑山相模守、亀井武蔵守、寺沢志摩守、石川玄蕃頭、天野周防守、奥平藤兵衛、河村助左衛門、山城宮内少輔、佐藤三河守、村越兵庫頭、別所孫次郎、本多因幡守、松倉豊後守、神保長三郎、秋山右近、野尻彦太郎、仙石少弐、分部左京亮、施薬院、水野河内守、佐々喜三郎、山岡修理、岡田勝五郎、箸尾半左衛門、大野修理亮(治長) 家康を総大将とする関東下向の諸将の下には、合計五万五千八百人。伏見城の留守居役は、鳥居彦右衛門元忠、松平主殿頭家忠、内藤弥次右衛門家長、松平五左衛門近正らである。 奥州?白河表から会津へ進撃したのは佐竹義宣(実は三成派)、陸奥岩出山に拠る伊達政宗隊は、上杉領白石城を攻撃して破り、信夫口から会津へ。米沢口からは最上出羽守義光が侵攻した。 また、北国の総大将として羽柴肥前守利勝が越後の津川口から会津に向かい、真っ正面から堀秀治?溝口伯耆守父子?村上周防守父子?堀監物父子が出陣し、家康の着陣を待って滞陣した。 家康は6月18日、伏見城を出て琵琶湖畔の大津城で京極宰相高次のもてなしを受け、その夜は石部で一泊。翌19日朝、水口城主長束大蔵正家がもてなしの為、お迎えに参上したが、家康はこれを辞退。長束の家臣は先を急ぐ家康の先鋒を務め、土山まで送り道中の安全をはかった。一行はこれより関の地蔵で野営し、翌20日鈴鹿峠を越え、その夜四日市で宿陣。そこから船で知多半島を迂回して三河の作の島に渡り、田中兵部のもてなしを受けた。 22日遠州吉田城の池田三左衛門尉のもとに立ち寄り、馳走にあずかり、その夜は白須加に泊まり、翌23日には浜松城に立ち寄った。城主堀尾信濃守の供応を受けて、その夜は中泉に泊まる。24日朝、中泉を出て、中山に至り、山内対馬守一豊の昼のもてなしを受けて、その夜は島田で一泊。その次の日は駿府城二の丸で城主中村式部少輔一氏の病気見舞いに立ち寄った。病のすぐれぬ中村一氏は駕籠に乗って家康の御前に参上し、病気見舞いの家康に厚く礼を述べた。中村一氏とはこれが今生の別れとなり、一氏は7月に病没した。その夜は清見寺に宿泊した。25日は沼津に到着。中村彦左衛門一行の出迎えを受けて休息した。ここで本多佐渡守正信、大久保相模守忠隣らが江戸から出迎えに参上。そこより鎌倉、金沢に立ち寄り、江戸に着いたのは7月2日であった。 京都伏見から江戸城に着くまで15日をかけての下向であった。(会津攻めにかこつけて、東海の守備の状況と、家康に対する忠誠ぶりをつぶさに踏査する目的があったと思われる) 家康が江戸城に到着するのを待っていた会津攻めの諸将は、続々江戸城に集まり、会津進発に際しての軍評会議が開かれた。即刻、会津攻めを開始する沙汰を出すことになったが、諸侯の統制を図るため十五カ条の規約を定め、これに違反した者は ”重罰に処す” と触を出した。 事を起こすにあたり、内部の攪乱、他の味方同士のいざこざがあれば烏合の衆となる。まず大軍団を動かす場合、厳しすぎるほどの統制が必要となる。十五カ条の規約によって、各将を通じ足軽の一人一人に徹底させてから行動に移るのが、家康の常套であった。 7月13日、徳川軍の先鋒榊原康政が出発し、19日に秀忠率いる前軍が江戸城を発ち、二日後の21日に家康が豊臣諸将を率いて江戸を出発した。 三成挙兵 近江佐和山に引き込んでいた石田三成は、家康の会津出陣の動きを知ると機敏に行動を開始した。秀吉の小姓時代からの友である越前敦賀の大谷吉継を味方に付けるとともに、上杉景勝と連絡を取りながら、家康を東西から挟撃する体制を作ろうとした。 7月12日、西軍にとっては最高首脳会議ともいうべき重要な会談が石田三成の居城である佐和山城で行われた。 会議のメンバー 石田三成(近江佐和山城主) 大谷吉継(越前敦賀城種) 増田長盛(大和郡山城主) 安国寺恵瓊(伊予ノ内) その会議の席上、吉継は三成に向かって、 「おぬしでは首将はつとまるまい」 と言ったと言われる。有力大名の中には三成を嫌っている者も多い。三成としては秀吉の言葉を具現化する為だけにとった行動ではあるが、それをされた武将にとっては、秀吉の権威をかさに着る戦争を知らない文官。という認識であり、槍一本で出世した者から見ると甚だ鼻持ちならない奸臣という事になる。頭の良い三成は無論そのような自分の評判を知っているし、知行高や位から考えると自分が総大将に適任でないことは分かっていたと思われる。たまたまメンバーの中に安国寺恵瓊が居たことも幸いし「五大老の一人、毛利輝元殿に西軍の総帥になっていただこう」と言う線で一致を見たようである。毛利輝元は家康に次ぐ百二十万石を領する大大名である。三成らは輝元ならば家康に対抗しうる人物と考えたわけで、この決定を受けて増田長盛パイプ役になったと思われるが、前田玄以?長束正家の三奉行連署で輝元への西軍総帥就任の要請状が出されている。 7月13日、のちの関ヶ原の戦いの勝敗に直結する大きな動きがあった。輝元の一族である吉川広家の動きである。家康が会津攻めに踏み切ったとき、それが家康個人の私戦ではなく、あくまで「秀吉様に楯つく景勝を除く」ということが標榜されていたため、五大老の一人である輝元も、内心はともかくとして、表面上は協力せざるを得ず、安国寺恵瓊を従わせていたのである。ところが、その恵瓊が事もあろうに、西軍の首謀者になっていたのである。吉川広家はかなり先が読める武将であったらしい。7月14日大阪において恵瓊から、三成らとともに家康打倒の戦いに荷担するという計画を勧められたときも、その実現性を危ぶみ、かえって家臣の椙杜元禄をさっそく広島に遣わし、輝元の出陣を留めようとしたぐらいである。 しかし、その辺りの詳しい事情が知らされていないところへ、さきの三奉行から連署状が輝元の手元へ届けられてしまったのである。親家康派とも言うべき広家が側に居なかったこともあり、輝元はその連署状を受け取るや否や、直ぐに広島を出発し、瀬戸内海を通って16日、早くも大阪城に入っている。14日に広家と。輝元の摂津木津邸の留守居であった増田元祥らと相談の結果、「輝元様は三成らの挙兵に関与していない」という趣旨の手紙を家康の元へ届けようとしたが、輝元が大阪城へ入り、西軍の総帥に祭り上げられてしまったため、広家の手はずは狂ってしまい、毛利氏はずるずると西軍の中核に据えられてしまったのである。もっとも輝元にしても、その養子の秀元にしても、初めから西軍の総帥に担ぎ出されるという心づもりはなかった。例えば秀元が大阪城に入った輝元に向かって、三成らの要請を受けて簡単に大阪城に入ってしまった軽挙を戒め、「この事が家康に聞こえたらどうするのか」と意見を言っているぐらいである。 しかし、輝元の行動は間違っているという広家の言動が正当化されているが、それは東軍が関ヶ原で勝利したという事実を知っている後世の人の意見である。この時点では西軍が負けると予測する合理的理由は無いのである。総大将という「美味しい」地位を手に入れれば、秀頼を傀儡化し、輝元みずからが天下に号令をかけられるという事を内包している。天下の覇者になる事は戦国時代を生き抜いた武将の夢である。輝元の誤りは親家康派の吉川広家と親三成派の安国寺恵瓊の両派閥の意見によって身動きがとれなくなった事である。歴史に「もしも」は無いが、関ヶ原の戦いで南宮山に陣した吉川広家が毛利全軍を足止めしていなければ、家康軍は狭い関ヶ原の盆地で逃げ場所もなく挟撃される(というより広家の内応がなければ関ヶ原へ家康が出陣することも無いが)のである。そうなれば小早川秀秋が東軍に寝返る事もできないのである。総大将の地位に就いたのならば、積極的に軍を動かし名実共に総大将になる必要があった。それを名前だけの総大将である道を選び、どちらが勝っても良いようにしたつもりであったのであろう。その中途半端な判断が毛利輝元の過ちである。 大老毛利輝元を盟主に担いで、7月17日、家康を弾劾する十三カ条からなる「内府(家康)ちかひ(違い)の条々」を全国の大名に向けて発し、家康に宣戦布告した。 この弾劾状には、三奉行(長盛?正家?玄以)の連署状が添えられており、そこには「内府公、上巻の誓紙ならびに太閤様(秀吉)の御置目(掟)を背かれ、秀頼様を見捨てられ、出馬候間、各申し談じ、鉾盾(挙兵)に及び候」と挙兵に至った理由を述べると共に、家康を豊臣政権の敵対者と位置づけるために「太閤様の御恩賞を相忘れられず候はゞ、秀頼様へ御忠節あるべく候」と秀頼への忠節を尽くすべきことを強調している。 この三成らの挙兵の呼びかけに対し、畿内?西国方面から諸将があいついで大阪に集まり、その数は十万人を超えた。これがいわゆる西軍である。 西軍は三成の呼びかけに応じなかった各地の親家康派の居城を攻めると共に、家康が上方の抑えとして残しておいた家臣鳥井元忠が守る伏見城を二万人の大軍を持って包囲し、8月1日にはこれを陥落させた。そして同月9日、三成は兵六千を率いて美濃方面へ出撃し、十一日には大垣城に入って上杉景勝とともに、家康を東西から挟撃するかまえを見せた。 小山評定 家康の会津出陣が反家康勢力の挙兵を促すことになることは、大方の予測するところであり、すでにこの時期には、上方における石田三成らの反乱の兆候は明かとなっていたが、家康はそれにも拘わらず、予定通り会津討伐に出陣した。前軍の秀忠率いる部隊が宇都宮に入城した後、七月二十四日には後軍の家康隊は下野の小山に到着した。 この間、上方の不穏な動きを伝える書状が、諸方面より相次いで家康の下に届いており、さらには伏見城の鳥井元忠より、伏見城を大阪方の諸将らから近日中に攻撃を受ける情勢にある旨を伝える使者がこの日到着した。ここにいたって家康は決心し、秀忠を初め全軍の諸将を小山の陣へ招集して上方の情勢への対応を協議した。世に名高い小山評定である。 軍評の争点は、 直ちに軍を引き、石田三成らの反乱を制圧する このまま一挙に会津に攻め入り、景勝の首級をあげた上で上洛する 兵力を二分して、一方は会津攻め、一方は三成らと対戦する これは討伐軍としての問題点であるが、家康の最大の問題は、上方から家康に随従してきた豊臣系武将達の向背であった。ことに東海道?東山道方面に領地を有している関係上、家康に義務的に従軍してきた豊臣系武将の動向が大きな問題であった。 しかし、黒田長政による説得工作が功を奏して、豊臣恩顧の大名の筆頭格である福島正則が家康への忠誠を誓う事によって、その場に居あわせた豊臣恩顧の武将達は意義無く家康に味方することを誓ったのである。それにより会津討伐を休止し、上方へ向けて反転進攻を第一とすることで一致し、その方針の下に作戦が展開された。 まず、家康および家康に随従してきた上方、東海道諸国の武将達は東海道を西上することとし、当面、福島正則の居城である尾張の清洲城に集結する。そして家康は、この東海道方面の徳川隊の先鋒として井伊直政を軍目付として、本多忠勝を豊臣武将たちに同道させる形で派遣することとした。 次に、多くの徳川系武将、及び信州方面の武将達は徳川秀忠に従って中山道を西上することとした。そして東海道方面の進攻軍とは美濃ないし近江のあたりで合流し、石田三成の西軍との決戦に挑もうとした。 第三に上杉景勝に対する防備の問題である。秀忠は西上に先立って宇都宮城に入り、上杉方に対する防御陣地の構築を監督している。これにはよほど力を入れており、小山の評定の後より始まって、八月二十日あたりまで、約一ヶ月間をこの作業のために費やしている。秀忠の率いる部隊が宇都宮を発して西上の途に付くのは、八月二十四日であった。 これらから考えると、小山の評定で合意されていた東軍の戦略は、急速西上による三成ら西軍との短期決戦ではなく、防禦を充分に固める一方、大軍をもって敵を圧倒し、順次これを制圧してゆくような中?長期的な観点をもってするものであったと言える。実際、江戸城に戻った家康にしてみれば、今一度彼を取り巻く状況を冷静に分析したとき、軽々に石田方との決戦に出陣できないことも明らかになってくる。 一つに家康の背後にある会津の上杉景勝、そしてそれと気脈を通じている常陸の佐竹義宣に対する恐れである。もし、家康が出陣したのちに上杉?佐竹の連合軍が宇都宮の防衛ラインを突破して関東平野へ乱入するような事態に立ち至ったならば、又、その時点では味方である伊達政宗は名うての軍略家であり情勢如何によっては天下を狙いかねない男である。事と次第によっては挟撃の危機に瀕することとなる。 家康にとって今一つの問題は、尾張清洲城に集結して家康の到着を待っている豊臣系武将達である。彼らは確かに小山の評定においては一致して家康に忠誠を誓った。そして彼らの多くが石田三成を打倒するために働くことは疑わなくてもよいだろう。しかし、今度の戦いは石田三成との私戦ではなく、増田長盛?長束正家らの豊臣奉行達もまた家康に対する弾劾状に名を連ね、さらには豊臣秀頼の御為を唱えて全国の諸大名を糾合している豊臣公儀そのものを敵に回した戦いとなっていたのである。それゆえに、家康に与同を表明している豊臣系武将達が、石田の背後にある豊臣公儀の名分に背いてどこまで戦いきることができるかが大いに疑問となる。これらの理由から、家康は江戸城を離れようとしなかった。と言うより離れられなかったということであろう。 大聖寺城攻め 東軍?西軍何れにつくかは、家の存亡をかけた選択である。加賀の前田家においては、三成挙兵の報を聞くと、兄である前田利長は東軍に付くが、七尾城にあった弟利政は病と称して動かなかった。 前田利家亡き後、利長は父の跡を継いで五大老の一人となっていた。しかし、家康の方が年齢も実力も上である。そこでこれより前、既に母芳春院を半ば人質のような形で家康の元に送り恭順の意を示していた。故に東軍に付き、北陸方面の総司令官として自ら二万五千の兵を率い、金沢(尾山)城を出発した。7月26日の事である。 北陸方面においては、金沢城の前田利長、府中城の堀尾吉晴は東軍。小松城の丹羽長重、大聖寺城山口宗永、越前北の庄城青木一矩らは西軍であった。さらに西軍の北陸攻略の総大将として、敦賀城に大谷吉継が控えていた。 金沢から京方面へ出るために、前田軍はまず丹羽長重の立て籠もる小松城へと兵を向ける。しかし小松城は「明智記」にも「要害の地は小松あたり」と記されているように、泥地であり、難攻不落の城として知られていた。丹羽軍は小松城に三千余りの兵をもって立て籠もっている。とても正面から攻める事は出来ないと判断した前田軍は、小松城を避け、8月1日から3日にかけて、山口宗永の守る大聖寺城を攻めた。 山口宗永は小早川秀秋の家臣であり、生粋の戦国武将であった。前田軍は1日大聖寺城を包囲し、再三に渡って降伏を呼びかける。しかし宗永は説得に応ぜず、かえって城中から前田軍めがけて発砲し抵抗を続けた。3日前田軍は遂に総攻撃をしかけ宗永?修弘父子は壮絶な戦いの末自刃した。前田軍は勢いに乗り、北庄城にいる青木一矩を攻めるべく進軍を開始。ここで前田軍にとって思いがけない報がもたらされた。西軍の北陸方面総大将大谷吉継が越前救援のため、脇坂安治、朽木元綱らを率いて敦賀城を出発したというものである。前田軍は動揺した。そこへ追い打ちをかけるように弟二報がもたらされた。大谷軍の別部隊が、海路より金沢城へ攻め込むという報である。 実はこの報は、大谷吉継が前田軍の侵攻を阻止するため、故意に流した偽の情報であった。吉継は西軍随一の戦略家であった。自分は宿病(癩病)を持ち、目もよく見えなかったと言われるが、戦略に於いては及ぶものがなかった程の人物である。吉継の戦略に乗せられた前田軍は、慌てて兵を半分に分け、利長の本隊は金沢へ戻り、別部隊を小松城へ向かわせることにした。当然の事ながら前田軍の勢力は大幅に縮小されてしまう。 前田軍は利長の本隊と、別部隊として家臣達を七隊に分け、別部隊の一隊が丹羽軍を牽制している間に利長の本隊は金沢へと迂回する作戦をとった。そのまま前田軍の別部隊は小松城攻めを開始する。しかし勢力が半減された後では苦戦は必定である。城攻めは最低でも3倍、力攻めならば10倍の兵力差が無いと困難である。兵力を分ける前に小松城を落としておかなかったのは不覚である。8月9日、小松近郊の淺井畷において、前田軍別部隊と丹羽軍との間で死闘が繰り広げられた。前田軍は丹羽軍の必死の抵抗の前に苦戦を強いられる。特に殿軍となった長連龍隊には多くの犠牲者が出た。攻防の後、丹羽長重は和睦に応じ開城する。 利長は9月12日再び金沢城を出発したが、関ヶ原の戦いには間に合わず、吉継の経略が見事に当たったという事になる。しかし吉継は関ヶ原の戦いに参戦し自刃。 戦後、前田利長は関ヶ原への遅参の責を問われず、逆に118万石の徳川本家に次ぐ大大名となり遅参=加増となる。策に踊らされた利長が安泰で、策を巡らし策は成功したが結局自刃した吉継を対比すると歴史の皮肉が見えてくる(戦国を義によって生きるのは難しい)。 岐阜城攻略 しかしながら、この様な手詰まりの状態の中で、それが急激に変化してゆくのは八月二十一日から始まる東軍の岐阜合戦である。 家康の出馬を繰り返し要請する尾張清洲城の豊臣系武将達に対して、家康は村越茂助を使者として派遣し、「おのおのの手出し無く候ゆえおん出馬なく候」と挑発的言辞をなげかけて彼らの向背を試みたのである。すると、この刺激的な発言に猛りたった福島正則以下の豊臣系武将は、直ちに西軍の織田秀信の守る岐阜城に対する総攻撃に乗り出し、木曽?長良の二川に囲まれた峻険な稲葉山の頂にある天下の名城「岐阜城」をわずか三日で陥落させた。さらにその余勢をかって豊臣武将達は長良?揖斐川の渡河作戦をも敢行し、西軍の防衛ラインを次々に突破して中山道の赤坂(岐阜県大垣市)まで進出するに至った。石田三成ら西軍主力の本営である大垣城へ一里という、文字通り指呼の間に両軍は対峙するまでに至ったのである。 しかし、これは家康の思惑を遙かに越える展開であり、そして、また予期せぬ由々しき事態の到来でもあった。何とならば、岐阜城を三日で攻略した豊臣武将達の力量を持ってすれば、家康や秀忠の部隊の到来を待たずとも、彼らだけで石田方西軍を葬り去ってしまうことは、強ち困難なことでは無いかもしれないという事である。そして、もしそのような事態に立ち至ったならば、家康の威信は失墜してしまい、合戦後の新しい政治体制に置いて発言力を低下させ、武将達に対する統制の力を失うことに成らざるを得ない。 家康の江戸出府 岐阜合戦の報が八月二十七日に家康の下に届くや、彼は直ちに出馬を決断するとともに、前線の豊臣武将達に対し、秀忠は中山道を、自分は東海道を押し上るゆえ「我ら父子を御待ち、尤もに候」と、それ以上の戦闘行動を慎重にして、家康父子の到着を持つべき事を指令している。 九月一日、家康は江戸を出陣する。家康はこの江戸出陣に際しても、前線の福島正則と池田輝政に早飛脚を遣わし、家康父子の到着まで軽々に戦端を開かぬように重ねて申し送っている(よほど、徳川氏抜きで決戦が始まるのが恐かったのであろう)。 家康は西上を急ぎ、金扇の馬印を小者に持たせて先遣したというのも、軍隊の急速展開を意図したことから来たものであろう。東海道を島田宿(静岡県島田市)まで進んだ家康が、九月六日付で福島正則に宛てた書状では「中納言(秀忠)、さだめて十日時分には其地(赤坂)まで参るべしと存じ候」(福島文書)と述べており、九月十日頃に秀忠の部隊が中山道の赤坂近くまで進出する目算であった事を伺わせている。家康はあわせて秀忠隊のために赤坂の「陣場見計」をなしておくようにと、前線に申し送っている。 九月十日到着とは、随分に性急な事のようにも思える。しかし秀忠隊は八月二十八には上州松井田(群馬県安中市)まで進んでいたのであるから、さらに十日余りの行程で赤坂まで至るという計算は、強ち無理な心づもりで無いかもしれない。だが、このあたりから、家康と秀忠との連絡が悪くなって行くのである。 家康は、九月十一日尾張清洲に到着した。しかしここで、中山道を進み美濃国で合流する手筈となっていた秀忠の部隊が、未だ信州に滞留している事が判明するのである。ここから秀忠部隊の遅参問題が発生することとなる。 周知の通り、秀忠の率いる部隊は、西軍に属する信州上田城主の真田昌幸を制圧するため、上田城に攻撃を仕掛けたのである。ところが、老練な真田昌幸の繰り出す反撃に翻弄され、それへの対応のために時日を空しくしてしまい、ついて関ヶ原に遅れるという事態を招いてしまったのである。 東軍の上杉景勝?佐竹義宣に備えた諸将一覧 禄高(石) 兵力 結城秀康 105,000 3,030 蒲生秀行 180,000 5,400 里見義康 90,000 2,700 相馬義胤 60,000 1,800 佐野政綱 39,000 1,170 平岩親吉 33,000 990 水谷勝俊 25,000 750 小笠原秀政 20,000 600 山川朝信 20,000 60 皆川広照 13,000 390 松平信一 5,000 150 植村泰忠 未詳ミショウ 未詳ミショウ 合計 590,000 17,040 中山道を西上した東軍の諸将一覧 禄高(石) 兵力 徳川秀忠 15,000 森忠政 127,000 3,810 榊原康政 100,000 3,000 本多忠政 100,000 3,000 奥平家昌 80,000 2,400 石川康長 80,000 2,400 仙石秀久 57,000 1,710 大久保忠隣?忠常 45,000 1,350 酒井家次 30,000 900 真田信之 27,000 810 日根野吉明 25,000 750 小笠原忠政 20,000 600 菅沼忠政 20,000 600 牧野忠政 20,000 600 諏訪頼水 12,000 360 本多正信 10,000 300 戸田一西 5,000 150 酒井忠利 3,000 90 合計 761,000 37,830 上田城攻め 慶長5年(1600年)八月二十四日、会津の上杉景勝の押さえとして下野宇都宮に留まっていた徳川秀忠が宇都宮を出発した。秀忠は信濃に入り中山道を通って、決戦場となる事が予想される美濃へ駒を進めることになったのである。 一方、東海道軍の家康の出馬は八月二十六日に予定されていたが、どうしたわけか二十三日になって九月三日に延期ということになった。上方の情勢が思うように進んでいなかった為か、或いは上杉景勝を牽制し、その動きを封ずるのに思いの外日時を要した為かもしれない。 尚、家康が江戸城を出発した丁度そのころ、秀忠は信濃の軽井沢に到着していた。そして翌二日小諸に至ったのである。中山道は小諸を通っていない。秀忠が軽井沢から中山道を外れ、小諸方面に向かったという事は、既にその時点で秀忠が、上田城の真田昌幸?真田幸村父子を攻めようと決意していたことを物語っている。 ところで上田城の真田父子であるが昌幸と次男幸村、そして長男真田信之は七月十九日に秀忠に従って会津攻めに出陣している。しかし、二十一日下野犬伏の陣所で三成の密使が西軍決起の密書を持ってきたのである。ある程度予想されていた事態であったが、事前に何の相談も打診もなかったため、やはり突然のことという印象は拭えなかったと思われる。昌幸?信之?幸村の三者で密談が持たれ、結局真田氏は東軍と西軍に分かれると言うことになったのである。 昌幸?幸村は西軍につながっていた。石田三成の妻は宇田頼忠の娘であった。そして昌幸の妻も頼忠の娘である。つまり三成と昌幸は妻同士が姉妹という、いわゆる「相婿」の関係であった。又、幸村の妻は大谷吉継の娘である。それに対し信之は、家康の重臣で「徳川四天王」の一人である本多忠勝の娘(小松姫)を妻としていた。信之は西軍につくなど思いもしなかったのである。 信之は犬伏で父と弟に別れを告げ、直ちに手兵を率いて小山の秀忠本陣へ向かい、秀忠二心のない事を誓っているが、昌幸?幸村父子は、犬伏から赤城山麓を通って沼田に出、さらに上田城に急行している。途中、沼田城で信之の妻小松殿に入城を拒否されたというエピソードはよく知られている。 二日、秀忠は小諸から使者を遣って、上田城の無血開城を信之に説得させた。その時昌幸は時間稼ぎのため、その説得に応じる素振りを見せ、翌三日に正式な和平交渉が始められたのである。ところが、実際に和平交渉が始まってみると、昌幸はそれまでの態度をがらっと変え、無血開城を拒絶したのである。その時の様子は、翌四日付けで、秀忠が森忠政宛に出した書状で明かになる。それによると「昌幸が剃髪して降参したいと信之を通じて泣きついてきたので、命だけは助けてやろうと、3日に使者を遣わしたところ、四日になって勝手な事を言いだしたため許すことはできない」というのである。結局秀忠は翌九月五日から上田城攻めを始めることになったのである(小林計一郎著「真田一族」参照)。 上田城の真田勢は約3000余。秀忠としてみれば、大軍で小城の一つを攻めるわけであるから、当初はあまり大げさには考えていなかったようである。俗っぽい言い方をすれば「行きがけの駄賃」程度に考えていたふしが見られる。又、そればかりでなく、かって天正13年(1585年)に、徳川軍が上田城を攻めようとしてかえって大敗を喫するという苦い経験があり、その「意趣返し」といった気持ちがあった事も否定できないと思われる。 ところが、上田城の攻防戦の中では、六日の戦いが有名である。これは秀忠が上田城の兵糧をピンチに追い込むため、城外の田に植えられている稲を刈らせようと兵を入れた。よく「焼働き」とか「刈働き」などと言われる作戦である。真田昌幸は、城内から兵を出して、「焼働き」や「刈働き」を妨害しようとする。それを見ていた秀忠は、兵を出して城外へ打って出た真田兵を追わせたのである。しかし戦の駆け引き、用兵術の点では秀忠より昌幸の方が一枚も二枚も上手で、結局、城兵は城へ逃げ、それを追った秀忠軍が城近くに引きつけられたところで城中から鉄砲で撃たれ、秀忠軍に多大の犠牲が出てしまったのである。 失敗に懲りた秀忠軍は、上田城を包囲したまま有効な手が打てず、その間に時間はどんどん経過していった。「行きがけの駄賃」つもりが、泥沼にずるずる足を引きずり込まれる形になってしまったのである。秀忠は仕方がなく上田城を落とすことを諦め、上田城攻めを中止し、美濃へ向かうことになったのである。 秀忠は千石秀久?石川康長?諏訪頼水らを押さえとして上田に残し、十日に小諸を発し、十三日に下諏訪に出ていたのである。そして秀忠がようやく下諏訪に到着したその日、家康は岐阜に着陣した。 ところが、家康は九月十二日付けで大田原晴清及び丹羽長重に出した書状によると、「今月十二日に岐阜着陣」と書かれてあり、十二日に岐阜に着いたと考えられる。しかし「慶長記」によれば十三日のこととなっている。 家康にしてみれば、秀忠の部隊は未だ到着していないが、既に東軍先鋒の福島正則らが去る八月十四日以来、一ヶ月にわたって足止めをくらわされている常態を考えたとき、戦を先延ばしできなくなっていたようである。岐阜の家康の陣のもとへ先鋒の諸将が来謁してくる。秀忠を待つか、福島正則らの一ヶ月の空白を埋める方が得策か、家康は迷った末に秀忠隊を除外して決戦に挑むことにする。 田辺城攻め 慶長五年(1600年)七月、徳川家康が諸将を従えて上杉征伐で東下中、上方で石田三成が挙兵した。 この挙兵に加わった西軍は、まず多数派工作として家康に従い関東へ出かけている諸将の家族を、人質として大阪城へ入れようと考えた。 その手始めとして、丹後宮津城主細川越中守忠興夫人ガラシアの元へ使者を送る。ところがガラシアは大阪城入りを拒否した。西軍は力づくでもと、兵を持って玉造(現:大阪市玉造)の屋敷を包囲する。すると彼女は屋敷に火をかけて自殺してしまった。七月十七日のことである。ガラシアはこの時38歳。これで細川家が西軍に味方する望みは絶たれた。 西軍は直ちに丹波?但馬の諸城から丹後細川領攻めの軍を出させることにする。 細川家では丹後一国を掌握するために、宮津城の他に田辺城?峰山城?久美浜城の四つの拠点を置いていた。だがその四城を守るべき諸将は、忠興?興元兄弟に従って関東へ下っていた。宮津本城で留守を守っているのは隠居の幽斎と忠興の息女に側室。峰山城には幽斎の弟妙庵に興元夫人。そして重臣の松井康之の預かる久美浜、その夫人が僅かな兵に守られているに過ぎない。幽斎の元に、ガラシア夫人の自殺や、丹後?但馬兵が今にも襲ってくる言う知らせが入り城内は騒然とした。 四城には兵が五十から六十騎づつ在城している。兵を分散しては到底西軍の攻撃を支えきれない。そこで、宮津?峰山?久美浜の三城を捨て、幽斎の城である田辺に全兵力を集めて籠城する事にした。混乱の中、峰山と久美浜へ急使を遣わし、宮津から田辺まで25Kmを幽斎は漁師の協力を得て女子供を連れて海路田辺へ入った。 しかし、突然のことであるため、田辺城の城壁修理をする暇はない。城に近い樹木は見通しを良くするために全部伐採した。 ただ、身を賭して戦おうとする城兵の士気だけは旺盛である。折り悪く稲の刈り入れ前の七月であるため食料も乏しい。その乏しい乏しい食料も手当たり次第にかき集め、凡そ防御に役立ちそうなものは残らず城内へ運び込んだ。 一方、峰山城では、興元夫人らを岩滝へ脱出させ、そこから川舟で宮津湾へ漕ぎ出した時、西軍の攻撃を受けた。城兵は三日間ほど奮戦したが落城してしまった。 久美浜となると、峰山から更に20Km以上離れている。敵が来る前に、女子供を田辺城に待避させる時間的余裕がない。急使は「城を捨てて山中へお籠もりあれ」とだけ告げた。 城主松井康之の夫人は、幽斎の息女である。夫人は直ちに二人の家臣に守られて山中に隠れた。城と言うより館に近い久美浜城は、敵の攻撃を受けてまもなく落城した。 7月20日の早朝、西軍の小野木重次以下15,000の兵が国境を越えて、田辺城に迫った。主な武将は次の者達である。 小野木縫介重次(丹波福知山城主) 羽柴紹英家定(播磨姫路城主) 谷出羽守衛友(丹波山家城主) 木下右衛門延俊(播磨の内) 石川備後守貞通(不明) 川勝右兵衛秀氏(丹波の内) 藤掛三河守永勝(不明) 長谷川丹後守勝富(越前の内) 高田河内守 森勘八高政 早川主馬助長政(豊後府内城主) 杉原伯耆守長房(但馬豊岡城主) 生駒雅楽頭一政(讃岐高松城主) 別所豊後守重友(丹後綾部城主) 山崎左馬介宗盛(摂津三田城主) 小出出羽守吉政(但馬出石城主) 赤松左兵衛広道 田辺城は、三方を山が取り巻き、北側には海が広がっている。本丸を中心に二の丸?三の丸を配した輪郭式の城で、舞鶴湾へ注ぐ二筋の川の間に築かれていた。規模はかなり大きかったが、平城であり、石塁を巡らせ櫓を設けてあるが、さほど堅固な城ではない。 守兵は僅かであり、何処からも救援の来きようがない孤城であった。まず10日と持たないであろうと、寄手の西軍はたかをくくっていた。事実、幽斎もここが死に場所と覚悟を決めていたと後に述懐している。 敵の攻撃を受ける直前、城兵を勇気づけたのは、浪人三刀谷孝和の入城であった。彼は出雲三刀谷の出身で、父親の代から毛利家に属していたが、朝鮮の役以後毛利家を去って、京都で浪々の日を送りながら天下の形勢を見守っていたのである。 父親が石田方の安国寺恵瓊と親しく、恵瓊は孝和に目を付けて、戦が起これば西軍の先導に用いようと考えていた。 孝和は話を聞いて首をかしげる。家康の器量やそれに従う顔ぶれを見ると、どう見ても西軍に勝ち目は薄い。むしろ東軍について一働きした方が賢明だと考えた。ところが関東へ下るにはもう時期的に遅すぎる。やっと考えついたのが、孤立した田辺城であった。幸い幽斎とは面識がある。そこで一族郎党百余名を従えて田辺城へ入った。いわば陣を借りて一旗揚げようと言うわけである。戦国時代には良くある例だが、手薄の城にとっては願ってもない援兵と言えた。 21日、田辺城近くの山々に幟が立ち始める。寄手の武将達が陣所を構えだしたのだ。田辺は天険を頼むわけにはいかない平城である。おまけに寡兵だから、敵が城に押し寄せると一気に押し潰されてしまう。そこで寄手に果敢に奇襲攻撃をかけて、敵陣を掻き回すことにした。城の西方4Kmの福井へ進出して来た寄手軍に対し、三刀谷孝和らが出撃して初戦の一撃を加えた。また城の南方2km余りの公文名は、木下延俊、赤松広道の陣所となっている。ここから夥しい鉄砲隊と幌武者が城へ向かってきた。櫓上からこれを発見した忠興の弟妙庵は、一手を二つ橋へ、一手を伊佐村へ出張させる。そして大砲と鉄砲で迎撃し、撃破してしまった。こうした攻撃が、以外に効果を上げているのは、寄手軍が寄り合い所帯お互いの連絡が不十分だったこともある。 22日、東南の山の斜面の幟が交替し始めた。陣所替えらしい。大田郷の山上に山崎宗盛、小出吉政の幟が立った。山崎家の幟は黒白段々筋なのではっきりと分かる。これを櫓上から見ていた妙庵は、北村勘太郎に命じて城内から大筒を三発撃ち込んだ。敵は平然としている。四発目を撃つと、これが近くに着弾したらしく、幟持ちが慌てて浮き足立った。そこで同じ加減に撃ったところ、敵は大騒ぎをして引き上げてしまった。しかし合戦というものは、所詮は力の対決である。15,000という大軍の圧力は流石に凄まじく、田辺城はじりじりと囲みを縮められてゆく。 城の搦め手に架かっていた大橋は、予め橋板を剥がして通路を狭めてあった。23日この大橋をめがけて小野木勢が猛攻撃をかけてきた。弾丸除けに竹の束を作って、それを押し立てながら橋を渡ってくる。城方は応戦しながら、残った橋板を全部落とし、渡れないようにしてしまった。 25日になると、寄手の攻撃は熾烈を極めてきた。暁暗に乗じて、大手の海際から塀に梯を掛けて、80人ばかりが城内へ攻め入ってくる。しかしこれは余りにも無謀な作戦であった。二の丸櫓から狙い撃ちにして全滅させてしまった。 巳の刻(午前10時)には、砲撃と同時に搦手(城の裏門)へ押し寄せてくる。城内からも鉄砲で応戦したが、大手馬場には、山崎勢の幟がはためき盛んに鉄砲を撃ち込んでくる。と、寄手軍から幌武者が一騎現れた。弾丸が飛び交うなかを、平気で方々へ馬を乗り回して馬上で采配を振るっている。常駐から狙い撃ちするも、少しもあたらない。泰然として引き返していった、この度胸の良さに一同感心したという。後に判明したのだが赤松家の物頭役、井門亀右衛門重行という武者であった。 この日も寄手の死傷者のみ多く、城方は一人も負傷者も出していない。城方で功のあった者は、北村勘太郎、松山権兵衛。大塚源次、北村勘三郎、佐野三之丞、加藤新介らであった。 26日、寄手陣営は静まり返っていた。申の刻(午後2時)頃、東方から杉原?別所勢、西方から谷?長谷川?藤掛?川勝勢が、楯板や竹束を持って攻め寄せてきた。城方は引きつけるだけ引きつけて、狭間から鉄砲を一斉射撃して撃退する。 小城の猛烈な抵抗を受けた寄手軍は、この日を最期に持久戦に切り替えてしまう。田辺城籠城戦は、ほぼ50日間にわたって戦闘であったが、激しい戦闘があったのは、初めの一週間に過ぎない。 田辺城以外の情勢も緊迫してきた。8月23日に西軍方織田秀信の岐阜城落城の報が入る。寄手軍は動揺し始めた。元々寄せ集めであり、中には藤掛永勝のように幽斎と親しい人もいる。 この藤掛をはじめ、幽斎の弟子である谷衛友、小出吉政、川勝秀氏らは、派手に鉄砲を撃ちかけていたが、小野木への義理であり、実はみな空砲であったという。この事については「細川家記」の記述に、幽斎夫人光寿院も籠城の間、具足を付け夜回りをして士卒に心を配られたが、片手間に寄手のなかで城中に志を通じ空砲を撃った者の旗紋を記しておいた。後にそれを忠興が家康に見せたので、小出?藤掛?谷?川勝らは西軍であったが、所領を没収されず安堵されたという。 一方京都では、幽斎を救助しようと朝廷が動き始めていた。幽斎は和歌に堪能で、三条西実枝から古今伝授を受けている。もし幽斎が討ち死にすれば、連綿と続いてきた歌道の正統が絶える、と心配したのである。 実は朝廷の動きは早くからあった。七月末の激しい戦闘があった直後、八条宮智仁親王から開城を奨める使いが来ている。この時幽斎は「源氏物語抄」や「二十一代集」を朝廷に献上しながら丁重に断った。 8月21日にも、親王家から使いが立って開城を諭したが、「開城は武人の本位に非ず」と幽斎は聞き入れない。このように幽斎が一筋に思い詰めて籠城していることが、とうとう後陽成天皇の耳にまで入った。 心配された天皇は、「彼が城を出るように意見して欲しい」と大徳寺の玉甫和尚に内密で勅使を仰せつけられた。玉甫は応える「勅諚とあればご辞退も出来ませんが、内密とありますゆえ、幾重にも御免被りたく存じます。何故なら、幽斎はもう年をとっており、城を出たとしても幾年も生きられますまい。ことに嫡子の越中守は関東に出陣しておりますから、武将として二心無く田辺で討ち死にするのは当然と存じます。ですから幽斎に城を出るよう意見することは致しかねます」 天皇はますます心配になった。「本朝の神道の奥義、和歌の秘密が絶えれば神国の掟も空しくなろう。古今の伝授を宮中に残さねばならぬ」と、今度は京都所司代前田玄以に勅使を出され、「早く田辺の囲みを解き、幽斎を城から出すように」と詔があった。玄以も勅命に背くわけにはいかない。玄以の養子主膳義勝を田辺に遣わして和議を斡旋したが、幽斎は一向に同意しない。いよいよ防御を固くする。それでとうとう、後陽成天皇から勅使が田辺へ遣わされた。勅使は権大納言烏丸光宣。前権大納言中院通勝、富小路秀直、京都町奉行前田茂勝らを従えて9月3日に田辺へ到着した。そしてまず西軍寄手に勅旨を伝えた後、城に入った。こうまでされては、さすがの幽斎も勅命を無視できない。9月13日田辺城を明け渡す決心をした。 50日の激闘に耐え抜いた孤城は、まるで廃墟であった。既に寄手は、前日に囲みを解き引き上げている。人影のない、不思議な静けさに包まれた城の周囲は、屍臭が漂うだけの渺々たる野と化していた。 天下分け目の関ヶ原合戦は、実にその二日後、十五日の事である。 まだまだ、続きます?????。 関ヶ原合戦動員数 -------------------------------------------------------------------------------- 東軍 西軍 石高(万石) 動員数(人) 石高(万石) 動員数(人) 徳川家康 250.0万石 30,000 宇喜多秀家 57.4万石 17,220 福島正則 20.0万石 6,000 毛利秀元 16,000 黒田長政 18.0万石 5,400 小早川秀秋 52.2万石 15,675 細川忠興 17.0万石 5,100 長宗我部盛親 22.2万石 6,660 井伊直政 12.0万石 3,600 小西行長 20.0万石 6,000 本多忠勝 500 石田三成 19.4万石 5,820 松平忠吉 10.0万石 3,000 小川祐忠 7.0万石 2,100 京極高知 10.0万石 3,000 安国寺恵瓊 6.0万石 1,800 加藤嘉明 10.0万石 3,000 大谷吉継 5.0万石 1,500 田中吉政 10.0万石 3,000 長束正家 5.0万石 1,500 筒井定次 9.5万石 2,850 豊臣麾下の士 1,000 藤堂高虎 8.3万石 2,490 脇坂安治 3.3万石 990 寺沢広高 8.0万石 2,400 伊藤盛正 3.0万石 900 生駒一正 6.1万石 1,830 島津豊久 2.9万石 858 金森長近 3.8万石 1,140 島津義弘 800 古田重勝 3.4万石 1,020 木下頼継 2.5万石 750 織田有楽 1.5万石 450 朽木元綱 2.0万石 600 有馬則頼 1.0万石 300 赤座直保 2.0万石 600 分部光嘉 1.0万石 300 糟屋宗孝 1.2万石 360 小計 399.6万石 75,380 平塚為広 1.2万石 360 岸田忠氏 1.0万石 300 川尻直次 1.0万石 300 戸田重政 1.0万石 300 織田信高 小計 215.3万石 82,393 東軍の南宮山?大垣城に備えた諸将 西軍の大垣城守備 石高(万石) 動員数(人) 石高(万石) 動員数(人) 池田輝政 15.2万石 4,560 福原長堯 2.0万石 600 浅野幸長 21.7万石 6,510 高橋元種 5.0万石 1,500 山内一豊 6.9万石 2,058 秋月種長 3.0万石 900 有馬豊氏 3.0万石 900 垣見一直 2.0万石 600 堀尾忠氏 17.0万石 5,100 相良頼房 1.8万石 540 中村一栄 14.0万石 4,350 熊谷直盛 1.5万石 450 水野勝成 3.0万石 900 木村勝正 1.0万石 300 西尾光教 2.0万石 600 木村豊統 松下重綱 1.0万石 300 小計 16.3万石 4,890 一柳直盛 3.5万石 1,050 小計 87.3万石 26,328 東軍合計 486.9万石 101,708 西軍合計 231.6万石 87,283
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