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这是一条镜像帖。来源:北邮人论坛 / japanese / #24335同步于 2008/6/14
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耳川の戦い

prating
2008/6/14镜像同步0 回复
当事者1:大友宗麟 当事者2:島津義久 当事者3: 時代:戦国時代 年代:1578年(天正6年)11月9日 要約:九州の覇者「大友氏」、九州の出口を押さえられている「島津氏」、この両者が九州の覇権をかけて戦った。結果は島津氏が勝利し九州の覇権は島津氏に移って行く。 内容: 島津氏の日向進出 大友氏の威勢に追われて、南九州に封じ込められていた島津氏は、島津義久の代に武略の島津義弘、知謀の島津歳久、兵術の島津家久と言われてた三弟を擁して、対外発展を画策した。 まず天正5年(1577年)日向に侵攻し、さらに肥後に侵入した。日向では天正5年(1577年)12月、名族伊東氏を追って大友氏と直接相対した。伊東義祐?義益父子が天正6年(1578年)正月、居城の都於郡を棄て、豊後の大友宗麟を頼ったからである。宗麟の縁属一条兼定の娘が、義益の妻となった関係で、宗麟は伊東氏をもって島津氏の北上を牽制したのであった。 大友氏の日向出兵 天正6年(1578年)4月、大友宗麟は伊東氏の旧領回復と島津氏の撃退を目指し、新当主の嫡男大友義統に三万の将兵を率いさせ日向に出陣させた。日向国十七ヶ国の城主を服属させた大友義統は、まず島津方に寝返った延岡城の土持親成を誅伐した。宗麟は10月、日向を回復する絶好機と判断、重臣の反対を押し切って自ら豊後の臼杵をたち、延岡郊外の無鹿(務志賀)に本営を設けた。そこで総勢四万三千余を四隊に編成し、島津勢を四方より攻撃する態勢を調えた。 耳川の戦い(みみかわのたたかい) 11月9日、大友氏の先鋒が、名貫川に布陣していた島津家久勢を破ると、大友勢は進んで山田有信の守る高城を包囲し、兵糧攻めを開始したので、両軍は小丸川を境に対峙することとなった。ところが家久勢の救援を図って佐土原に進撃した義久の主力軍が背後より総攻撃を仕掛けたため、大友軍は壊滅状態となって敗退した。世に言う耳川の戦いである。大友方は三千余の将卒を失い、さらに敗走する途中、城の北方の耳川で島津軍の迫撃に合い、戦死者の総数は二万人にも達したと伝えられる。 この結果、九州探題である大友宗麟の威勢は急速に落ち込んだ。代わって島津氏はやがて九州の覇権を握るが、これが秀吉の九州出兵の原因となる。 大友宗麟の覚悟 耳川の戦いで大友勢の敗退は、総帥の宗麟の信望を著しく失墜させた。それまで宗麟は家督相続以来、殆ど敗北らしい敗北を喫したことがなかった。彼は百戦錬磨の猛将ではなかったが、臼杵?立花?吉弘ら宿老の戦術に支えられ、秀でた外交戦略によって戦歴を勝ち抜いてきた。それが初めての敗戦で壊滅的な損害を受けたのだから人心の動揺は大きく、宗麟への批判は激しかった。 ことに宗麟が熱心なキリシタンであった為、これに非難が集中し、宣教師らが宗麟を欺いて信徒としたので、神仏の罰を受けて敗れた、という声があがった。中でも総指揮を執った田原親賢が、敗因は宣教師にあると吹聴したことから、北九州諸国の属将が相次いで反旗を翻し領内の家臣までもが、揃って宗麟の入信を非難するようになった。ここに至って宗麟は遺産分けをして服従を説き、自らは死んで責めを償おうとしたのである。
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