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这是一条镜像帖。来源:北邮人论坛 / japanese / #19817同步于 2008/5/16
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天台宗の内紛

prating
2008/5/16镜像同步0 回复
当事者1:円仁?良源 当事者2:円珍?余慶?明尊 当事者3: 時代:平安時代 年代:989年(永祚元年)9月29日~ 要約:慈覚派と智証派の対立により天台宗は動揺。智証派は延暦寺を降り園城寺を創設。以後両派の対立は宗教を越えて怨念となってゆく。 内容: 園城寺の創建 989年(永祚元年)9月29日、第二十代天台座主に余慶が任命された。ところが余慶が天台宗内の智証派に属していた為、慈覚派の僧が延暦寺講堂を閉鎖する挙に出た。978年(天元2年)に同じ余慶が天台宗名跡寺院法性寺座主に任じられた時も同様な反対があった。今回はそれよりも大きな騒動となった。 座主任命の宣命を読む勅使少納言源能遠は数百人の山徒に阻まれて山を登れず、10月4日検非違使に守られて少納言時方が登山して宣命を読んだが、山徒の為に宣命を奪われる有様となった。余慶は座主となったが寺務を執ることが出来ず、12月20日辞任する。991年(正暦2年)余慶は没したが、両派の対立は激化し、993(正暦4年)7月28日、智証派の成算が赤山禅院を荒らした。これに怒った慈覚派が山上の智証派の坊舎を襲い、四十余宇を破壊し、門徒千余人を追い出した。慶祚以下智証派は山を下りて園城寺に処す拠り、叡山は遂に延暦寺の山門と、園城寺の寺門の二つの派に分裂することとなった。 慈覚派とは、第三代天台座主円仁の謚号を慈覚大師と言ったのでこの門流を言い、智証派は第五代天台座主円珍、謚号は智証大師の門流の事である。円仁?円珍は供に天台宗の名僧であり、その門弟に優れた僧が出た。円珍没後はその門弟が叡山の主流となったが、慈覚派も盛り返し、大きな争いは無かったが、第十八代天台座主良源の時代となり、弟子尋禅の優遇策もあって、自派を固め、智証派を圧迫したので、紛争は激化する傾向となった。天台宗は開祖最澄の後継を巡って客分義真と直門円澄の二派の争いがあり、円仁が最澄直門、円珍が義真の弟子であったため、その争いが弟子達の間で再燃したと言える。 園城寺関係略年表 859年(貞観元年)9月3日 僧円珍が園城寺(三井寺)を再建する 993年(正暦4年)8月8日 慶祚以下智証派は、山を降りて園城寺に拠り、叡山はついに延暦寺の山門と園城寺の寺門の二つの派に分裂した 1035年(長元8年)3月7日 園城寺三尾明神の祭りに延暦寺衆徒が乱入する 1035年(長元8年)3月29日 園城寺衆徒が延暦寺権僧正明尊の山上坊舎を焼く 1038年(長暦2年)10月27日 延暦寺衆徒が、園城寺大僧正明尊の天台座主就任に反対。入京し奏上する 1039年(長暦3年)5月 園城寺戒壇の設立についてその可否を諸宗に問う 1040年(長暦4年)5月20日 戒壇建立をめぐり、園城寺の僧徒が騒動を起こした 天台座主が山門の教円になった為、寺門の明尊は菩薩戒を行う為、戒壇の設立を要請し、法相?三論?華厳?律宗は申請を指示したが延暦寺は反対。天台宗の僧侶は菩薩戒を受け僧侶になるが、戒壇は山門にのみあった 1040年(長暦4年)10月20日 関白藤原頼通の妻、源隆子が園城寺常行堂を供養する 1041年(長久2年)5月14日 園城寺の戒壇建立について延暦寺だけがこれに反対する 1042年(長久3年)3月10日 延暦寺衆徒が園城寺円満院を焼く 1070年6月29日 園城寺戒壇設立の可否を諸宗に問う 1081年(永保元年)4月15日 園城寺の大衆が日吉祭を妨害。これを契機に園城寺と延暦寺の大衆は一大破壊戦に突入した 日吉社の諸役に勤仕していた大津の下人達から出されていた小さな訴えを延暦寺が取り上げなかったため、下人達が日吉社の諸役を勤めないと園城寺の大衆に申し出た所から起きた事件 1081年(永保元年)4月28日 延暦寺衆徒が園城寺を襲い、堂舎房宇を焼く 1081年7月23日 延暦寺は園城寺大衆の焼き討ちを警戒し、奉幣使が兵士を連れていたのを、園城寺兵士の襲来と勘違いし矢を射かけて追い返した 1081年(永保元年)9月13日 園城寺の大衆数百人が延暦寺を襲い、警護小屋に詰めていた延暦寺の僧徒と合戦した。翌朝園城寺側は敗走し、延暦寺の堂舎に損害はなかった 1081年(永保元年)9月14日 園城寺?延暦寺の争いに検非違使および、源義家を園城寺に遣わし悪僧を逮捕させる 1081年(永保元年)9月24日 前陸奥守源頼俊に園城寺の僧徒を捕らえさせる 1100年(康和2年)6月8日 園城寺衆徒、同寺長吏隆明の房舎を焼く 1104年(長治元年)3月 延暦寺と園城寺衆徒の争いが激化する 1105年(長治2年)1月1日 延暦寺衆徒が園城寺僧、證観を訴える 園城寺戒壇設立問題 前代に起こった寺門派の明尊が天台座主に就任する問題は山門派の強硬な反対によって実現せず、1039年(長暦3年)3月、山門派の教円が座主となって一応落着した。当然この決定に不満を持っていた寺門派は、同年5月明尊を先頭に、新たに園城寺に戒壇を設立することを朝廷に請願した。山門(延暦寺)はこれに猛烈に反対し、両者の争いは新しい火種でさらに燃えることとなった。 天台宗の僧侶は菩薩戒を受けて初めて僧となる。この菩薩戒の正しい伝授者は寺門派であって山門派ではない。何故なら菩薩戒は最澄?義真の両師が唐で道邃(どうすい)から受けたが、最澄は誰にも戒を伝えないまま入滅し、一人義真が寺門の祖円珍に伝えたものである。しかも、山門の祖円仁は東大寺に受戒し、菩薩戒を受けた者ではない。従って寺門こそ天台菩薩戒の正統な保持者であり、その本拠こそ戒壇は設立されるべきであるとした。 戒は和合を持って本とする。同じ天台宗でありながら、二つの戒壇を設けることは不和であり、すでに延暦寺に存在する以上、園城寺に新しく設立する意味を認めないと山門側は反対した。これに対し寺門は、一宗両壇は天竺にもその例があり、しかも、山門は天台座主補任問題では、山?寺両門は別格と称して寺門を閉め出していると反駁した。 新戒壇設立の可否をめぐって朝議が開かれたが決定は見なかった。寺門明尊から1039年(長暦3年)閏12月に督促の請願が出され、翌1040年(長暦4年)4月に再度の請願がなされた。 「戒壇の勅許が無いため、寺中の沙弥は僧となる道が無く、皆逃げ去ってしまい、寺は死活問題である。明日にも勅許を賜りたい」 と願った。 さらに、同年6月、明尊以下が連署して戒壇設立が認められなければ、再び明尊を座主にするように迫った。朝廷は1041年(長久2年)5月14日、戒壇設立の可否を諸派に諮問し、その結果、法相?三論?華厳?律の各宗は園城寺の申請を支持し、ひとり延暦寺が絶対反対で、依然決着はつかなかった。山?寺両門は僧兵らを動員し、示威を行い、京市中を横行、殺人放火に及び、1042年(長久3年)3月には明尊の住坊円満院が山徒の為焼かれる有様であった。 1047年(永承2年)6月、天台座主教円が没したため、再び座主の後任問題がおこり、永承3年8月11日、遂に明尊が座主となった。しかし山門の反対で在任わずか三日で辞任せざるを得なかった。座主任命の勅使藤原永職(ふじわらのながもと)は、山僧の妨害で登山できず、途中の水飲付近で宣命を捨てて帰ったとも伝えられている。こうして園城寺戒壇設立はさらに持ち越され、山?寺両門の争いはますます激化していった。
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