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这是一条镜像帖。来源:北邮人论坛 / japanese / #21357同步于 2008/5/23
Japanese机器人发帖

後三年の役

prating
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当事者1:清原家衡?清原武衡 当事者2:藤原清衡 当事者3:源義家 時代:平安時代 年代:1083年9月(永保3年)~1087年(寛治1年)12月26日 要約:清原氏の内訌に源義家が介入。義家は奥州の覇権は握れず、藤原清衡がこの役の最終勝利者となる。 内容: 前九年の役の功績により、鎮守府将軍(従五位上相当官)に任ぜられた、清原武則は?安倍氏の旧領も支配するようになり、奥州に強大な強大な勢力圏を作り上げた。代が進み武則の孫の清原真衡には?子供がなかったので海道小太郎成衡というものを養子にしていた。この成衡が妻を迎えることになった。この祝いに清原一族の長老吉彦秀武も祝いに駆けつけた(秀武は前九年の役には、第三陣の押領使を務めた武将である)。秀武は真衡に金を献上しようとしたが、真衡は奈良法師との囲碁に熱中しこれを無視した。秀武はこの屈辱に耐えきれず領国出羽に帰ってしまった。 単独では真衡に抗し難い秀武は、真衡の異母弟の清原家衡?異父弟の藤原清衡を誘い込み、真衡の背後を突かせようとした。かねてより真衡に反感を抱いていた家衡らはこの誘いに乗り、真衡の留守宅に攻め寄せた。その為、真衡が館に引き返すと、家衡らは真衡と直接戦うことを恐れて逃げ去った。 源義家が陸奥守として赴任してきた永保三年秋は、まさに真衡が本拠の防備を固め、再び秀武討伐に向かおうとするところであった。真衡は礼を尽くして新司への饗応をすませ、出羽に出陣した。すると、家衡?清衡らはまたもや真衡の館を攻撃した。この時、たまたま(本当に”たまたま”だったのだろうか? 介入の機会を探っていたのではないのだとうか)館の近くにいた義家の郎党が請われるままに真衡の妻に加勢し、家衡らは撃退された。こうして義家も清原氏の内訌に加わることとなった。間もなく真衡は急死し、家衡らも義家に降伏したため戦いは終わり、義家は家衡?清衡に真衡の遺領を分け与えた。 うまく義家に取り入った清衡に対し、遺領の配分を不満とした家衡は、清衡の館を襲い妻子らを皆殺しにした。応徳三年秋、義家は清衡を助け数千騎の兵を率いて家衡の拠る沼柵を攻めた。しかし沼柵の備えは固く、数ヶ月の包囲戦により糧食もつき、かつ大雪により凍死者が続出した為、義家も撤兵せざるを得なかった。家衡は来援に駆けつけた叔父清原武衡の勧めにより、さらに要害の地である金沢柵に移り?翌寛治元年九月戦備を整えて来攻してきた義家軍と戦闘に入った。今度も家衡?武衡の抵抗は強く、戦いは前年と同様の様相を呈してきた。そこへ兄の苦戦を聞いた義家の弟の源義光(朝廷の許しを得ず勝手に来援したため、左兵衛尉の官を解任された)が京都から来援し、これに力を得た義家が総攻撃を開始。非常に苦戦のすえ、十一月十四日遂に金沢柵を陥落させ、家衡?武衡を討つことに成功した。 十二月二十六日、後三年の役を平定した陸奥守源義家から、清原武衡?家衡追討の報告が届いたが?朝廷ではこの戦いはあくまで源義家の私戦としてかたづけ、恩賞は一切無かった。後の世から見ても確かに後三年の役は、義家が奥州の覇権を獲得するために介入したようにも見える。さらにこの戦は、清原氏が朝廷に反抗したのではなく、清原氏の内訌である。それに介入しても朝廷としては?恩賞を与えるいわれはない。しかし、源義家は合力した郎党や家人に恩賞を与えねばならない。そこで?彼は自分の私財をもってこれにあて、より彼の名を不動のものにした。(この事が無ければ、彼の子孫の源頼朝が時流にのって挙兵しても、関東の武者は彼には従わなかっただろう)。 朝廷が源義家に恩賞を与えなかった理由はもう一つ有る。彼の名声の高まり諸国から荘園の寄進が相次ぐようになり、新たなる権門になることを旧来の上流貴族が恐れたからである。殺生を生業とする武士は上流貴族から見れば、侍身分に過ぎず、武力を利用するだけの存在でしかなかった。それが自分たちと同じ権門に成り上がることは、到底容認できなかった。そこで、源義家に恩賞を与えず彼の力を削ごうとしたとも考えられる。
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