返回信息流当事者1:三浦泰村
当事者2:北条時頼
当事者3:
時代:鎌倉時代
年代:1247年(宝治1年)5月~1247年(宝治1年)6月5日
要約:北条氏による独裁政治を確立するため、他氏族の粛正に務めてきたが、この合戦によって、北条氏の独裁は完成する。
内容: 三浦氏の実力
北条氏はこれまで、梶原氏?比企氏?和田氏など前途の障害になりそうな幕府創業の功臣をたびたび滅ぼしてきたが、北条氏専権を脅かしそうな有力豪族は、まだいくつかは健在であった。その有力豪族の中で、当時最も繁栄を誇っていたのは、三浦氏である。
「自分は既に正五位下となり、その他一族も多く官位を授かっている。その上数カ国守護を兼ね、一族の管掌する荘園も数万町に及ぶ。まさに盛運の極みといってよく、これでは他人から讒訴されるのも無理からぬことだ」
当主三浦泰村も、そう自認している程である。
しかも三浦氏は、決してこのような盛運に驕ることなく、北条氏と協調する事につとめ、幕政に尽力してきた。
だが、「讒訴されても仕方がない」と自認するその強大な勢力は、やがて次第に若い執権北条時頼を圧迫するようになり、時頼はいつかこの雄族の討滅を願うようになった。そしてその時、時頼の意を体して表だって動いたのは、時頼の母松下禅尼の父である有力豪族の安達景盛であった。
謀反の挑発
宝治元年5月、鶴岡八幡宮の鳥居の前に、
「三浦泰村は厳命に背いたため。近々誅罰されるとのことだ」
そんな文面の立て札が立てられた。それが皮切りで、以後しばしば三浦一族の叛逆を言いふらす流言が鎌倉を飛び交うようになった。もちろん、安達景盛らの挑発作戦であり、さしあたり三浦氏を討つ理由のない彼らは、こうして三浦氏を窮地に追いつめ、三浦氏側から挙兵してくることを期待した。
だが、泰村はどこまでも慎重であった。時頼が詰問の使者を差し向けても、巧みに受け流し、ボロを出さない。その為時頼もとうとう三浦氏誅罰をする気は毛頭ないと、書面で泰村に申し送らねばならない羽目になった。
しかし、それはわざと見せた隙だったのかもしれない。それというのも、三浦氏が時頼の書状を見て一安心しているところへ、安達景盛が大軍を率いて奇襲攻撃をかけたからである。
事ここにいたって、泰村は全てを諦めた。今仮にこの場を逃れても、時頼の気持ちが変わらない限り、いずれは滅ぼされるのである。そこで泰村は源頼朝の墓所である法華堂に籠もり、頼朝の絵像を前にして一族五百余人と共に自害する道を選んだ。
宝治合戦後の北条氏
時頼はこの後、戦勝の勢いに乗じて三浦氏と並ぶ豪族の千葉氏も攻め滅ぼす。ここにおいて幕府内における北条氏の独占的地位は、完全に確立した。
这是一条镜像帖。来源:北邮人论坛 / japanese / #22359同步于 2008/5/28
Japanese机器人发帖
宝治合戦
prating
2008/5/28镜像同步0 回复
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