返回信息流当事者1:細川高国?足利義晴
当事者2:細川晴元?足利義維?三好元長
当事者3:波多野稙道?柳本賢治
時代:戦国時代
年代:1526年(大永6年)7月13日~1531年(享禄4年)6月4日
要約:幕府の実権を握っていた細川氏も内紛により没落。京都が下克上の舞台となる。
内容: 桂川原の合戦
1526年(大永6年)7月13日、細川高国の被官である丹波守護細川尹賢が、香西元盛を謀殺する事件が起こった。元盛が高国から重用されている事を妬んであらぬ嫌疑をかけ、高国の居館に召還されたところを殺害したのである。この事件に元盛の兄である波多野稙道や弟の柳本賢治らは憤慨した。尹賢追討を決意し、十月下旬、阿波の細川聡明丸らと連絡を取りながら、稙道は矢上城、賢治は神尾寺城に立て籠もった。高国は尹賢を丹波に出陣させたが、守護代の内藤国貞や国人一揆に反撃された。
これを知った旧細川澄元党が摂津の中島で挙兵し、また三好政長らの四国勢は十二月、堺に上陸した。この危機に高国は、朝倉孝景ら近在の諸将に御内書を与え、出兵を促した。一方、柳本賢治らの丹波勢は、翌1527年(大永7年)2月3日、京都に進撃し、山崎で三好勝長らの阿波国人衆と合流して京都進出を図ったから、高国勢との一大決戦は必至となった。対する細川高国は、東寺に布陣し、十二代将軍足利義晴を京の本圀寺、武田元光を吉祥寺に、細川尹賢勢を桂川畔に配した。
戦いは2月12日、桂川を隔てて始まった。高国勢は本陣を久我から、妙本寺へと移動し、賢治勢を迫撃する構えをとった。翌日三好勝長?元長らの連合軍は一挙に桂川を渡って武田元光勢に突撃したので、高国勢も桂川原に進撃し、元光勢を支えて戦った。高国は奮戦したが、馬廻衆三百余人を失って大敗し、やむなく足利義晴を奉じて近江の坂本に逃れた。
この戦いにより京都では、将軍足利義晴を擁する細川高国と、足利義晴の弟の足利義維を擁する細川晴元?三好元長、丹波国人衆を従えた波多野稙道?柳本賢治の三勢力が鼎立し、幕府の実権を巡って錯綜した対立を深めていくことになる。
天王寺の合戦
桂川原の敗戦後、近江に逃れた細川高国は、伊賀の仁木義広、伊勢の北畠晴具、越前の朝倉孝景、出雲の尼子経久らを頼り転々と放浪していた。狙いは京都回復を図っての援軍要請であったが、最終的に、備前の浦上村宗のもとに落ち着いた。1530年(享禄3年)6月29日、播磨で柳本賢治を殺害すると、三好元長と細川晴元の不和に付け入り、翌月摂津に進撃した。晴元は、伊丹?池田?富松城の守りを固めたが、9月21日に富松城が落ち、1531年(享禄4年)1月6日には、堺からの援軍も破られた。
これを知った三好元長は、晴元を助けるため再び堺に進軍した。しかし、高国は2月に伊丹城、3月に池田城を陥れ、余勢を駆って四国勢が結集した堺への進撃を図った。
3月10日、高国は軍勢を堺へ向け、自らも摂津中島に出撃した。しかしこの時は、四国勢の先制攻撃にあって敗退し、本陣を中島の浦江に移した。浦上村宗が野田福島に布陣したので、総勢二万余りで四国勢と相対することとなった。対する三好元長は、3月15日、堺に着いた細川持隆勢八千と合体し、5月13、自ら一万五千余を率いて住吉に出陣した。持隆勢八千は堺に留まり、足利義維?晴元を警護した。両軍のにらみ合いが続いたが、村宗とは対立する赤松政村が播磨から東上し、晴元?元長方に加わるに至って戦局は一変した。
6月4日、元長は全軍をもって一挙に天王寺の高国陣営を襲撃した。激戦の末、高国勢は有力武将のほとんどと、七千余の兵を失う大敗北を喫し、辛うじて尼崎に退却したが、6月8日、尼崎の大物の広徳寺で自害した。
高国の敗死により、足利義晴の亡命政権に代わって新たに足利義維を擁立した細川晴元の政権、いわゆる ”堺公方府” が、三好元長らの軍事力を背景に機能し始める。
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桂川原の合戦、天王寺の合戦
prating
2008/6/7镜像同步0 回复
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