返回信息流当事者1:伊治呰麻呂?阿弖流為
当事者2:紀古麻呂?大伴弟麻呂?坂上田村麻呂
当事者3:
時代:奈良時代~平安時代
年代:780年(宝亀11年)3月2日~802年(延暦21年)8月
要約:蝦夷地区の支配を進めていた朝廷は、「飴と鞭」政策をとっていた。しかし反旗を翻してきた蝦夷に対し徹底的に打ちのめし、完全制圧を目指したが??。
内容: 伊治呰麻呂の乱
伊治呰麻呂が参議陸奥按察使紀広純を殺害したとの報告は、光仁天皇と朝廷を驚かせた。蝦夷の征討を積極的に推進したのは藤原仲麻呂であった。彼は息子の藤原朝かりを陸奥守に任命し、城を築き、投降して来た蝦夷には田地を与え、彼らを柵戸として定着させる方針をとった。投降してきた首長は郡司として任命したりもした。
称徳女帝の死の直後、770年(宝亀元年)以前から帰順していた蝦夷の首長、宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)が反した。他の蝦夷達もこれに呼応し、桃生城に進入し、反乱は出羽にまで拡大した。この時陸奥国鎮守将軍であった大伴駿河麻呂は、大軍によって蝦夷を攻略しようとしたが、病に倒れた。
その後、蝦夷征討にあたったのが紀広純である。彼は蝦夷最大の拠点である胆沢(現在の水沢市)を攻略しようとしていた。伊治城は道鏡政権下におかれた城であるが、服属した蝦夷の首領である呰麻呂は郡大領に任ぜられていた。呰麻呂は表面は帰属していても、心中は朝廷の蝦夷征討を良とはしていなかったのであろう。又その上、牡鹿郡大領道嶋大楯から常々夷俘と侮辱された事を怨んでいた。
紀広純が胆沢へ前進基地として覚べつ城を築くため伊治城に入った折りに事件は起こった。呰麻呂は大楯を、ついで広純を殺害したのである。
直ちに藤原継縄を将軍とする征討軍が任命されたが、戦の準備もできぬまま終わった。次に任命された藤原小黒麻呂の征討軍も、糧秣を確保できず、蝦夷軍のゲリラ戦に悩まされ進撃できなかった。桓武天皇即位後、朝廷は大伴家持を持節大将軍とする新たな征東計画を立てたが、長岡京造営などにより中止され、これらの叛乱の鎮圧は坂上田村麻呂の登場を待たなければならなかった。
第一次蝦夷征討
多賀城を本拠とする朝廷軍と、胆沢を本拠とする蝦夷軍が対峙する状況の786年(延暦5年)8月8日、蝦夷に備えて東海道及び東山道の軍士?戒具を検閲させてから、征討への準備が本格化した。788年(延暦7年)3月には、陸奥国に命じて軍粮三万五千余斛を多賀城に、東海?東山?北陸道の諸国に命じて糒二万三千余斛陸奥国に運ばせ、788年(延暦7年)3月2には、勅によって東海?東山?板東諸国の兵五万二千八百余人を一年後の来年三月までに多賀城へ集結せよとの動員令が出された。
多賀城に集結した征東軍は、789年(延暦8年)3月9日に北進を開始した。征東大使は紀古佐美である。征東軍の行動は飛駅と呼ばれる通信手段によって中央に報告された。4月6日の現地からの報告によると、多賀城を発した征東軍は、3月28日には衣川(現在の岩手県平泉町)を渡って三箇所に軍営を設けたが、それから一ヶ月以上もそこに留まったままであった。呰麻呂の叛乱によって、朝廷軍の情報網が破壊されてしまった為、敵情の偵察に時間を費やしたのかもしれない。そこで長岡京の朝廷は、5月12日の勅により今こそチャンスであるのに征東軍が滞留しているのは不審であるとして、滞留の理由と賊軍の状況を報告せよと指令した。
6月3日朝廷に到着した報告によると、精兵六千人を前?中?後の三体に分けて、北上川の東岸への渡河作戦を決行した。前軍は賊軍に阻まれて渡れなかったが、中?後軍は河を渡り、遭遇した賊軍三百人と戦った。勢いに乗って前進した官軍は八百人の強力な賊軍と遭遇、退却しようとしたところ、別に東山より出現した四百人の賊軍に退路を断たれ、官軍は混乱に陥って敗走した。官軍は賊首八十九を切ったものの、戦死二十五人、敵の矢に当たった者二百四十五人、河で溺死した者千三十六人などの損害を出した。官軍は賊将阿弖流為に率いられた蝦夷軍の巧みなゲリラ戦法に完全にしてやられたのであった。
6月9日、現地から軍粮等の補給が困難であることを理由に、今月10日までに征東軍を解軍するとの報告が届くと、朝廷からは情勢を奏上し指令を待って解軍しても遅くないのに、何らなすところなく、兵?粮を費やしたのは国家の大害であるとの勅が伝えられた。これを見ると、征東軍の解軍も、朝廷の意向に反して行われたことが知られる。
9月8日帰還した征東大将軍紀古佐美は節刀を返還したが、続いて9月19日に古佐美以下責任者の勘問が行われ、詔により責任者が処罰された。
第二次?第三次蝦夷征討
桓武朝第一次の蝦夷征討が失敗に終わった後、朝廷は直ちに再征討の準備に取りかかり、第二次?第三次の征討軍を派遣、胆沢の地の制圧に成功した。第二次の征討軍は、第一次の二倍に当たる十万の兵力を動員することを目標とした。また、従来、東海?東山両道で大規模な動員が行われても、他の諸国の農民は軍役を免れていたのを改め、全国総ての人民について、甲を作り得る資産を蓄えているかどうかを調査し費用を負担させる方針を立てた。まさに律令国家の総力を挙げて征夷に備えたのである。
794年1月1日、大将軍大伴弟麻呂に節刀を授け、大軍は東へ向かった。6月13日に副将坂上田村麻呂らの指揮によって征討が開始されたが、10月には終わったらしく、大将大伴弟麻呂から、討ち取った賊首四百五十七級、捕虜百五十人などの戦果が朝廷に報告された。しかし十万の大軍をもってしても、胆沢を攻略することはできなかった。このことは、蝦夷の抵抗がいかに頑強であったかを物語っている。
朝廷は、坂上田村麻呂を最高責任者とする第三次征討軍の派遣を計画し、797年(延暦16年)11月5日坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じた。801年(延暦20年)2月14日、坂上田村麻呂に節刀が授けられ、第三次の征討が開始されたが、戦闘の経過や戦果などについては、記録を欠く為に全く不明である。しかし、同年9月27日に征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷平定を奏上しているので、この頃には戦闘は終結した模様である。802年(延暦21年)1月9日に田村麻呂を造陸奥国胆沢城使に任じ、胆沢城を築いて鎮守府を置き、東国の浪人四千人を配置した。さらに803年(延暦22年)には、胆沢城の前衛として志波城を築いた。こうして三次に渡る蝦夷征討の結果、律令国家の東北経営は一大躍進を遂げた。
阿弖流為処刑
胆沢の地を制圧し、胆沢城の築城が進められていた802年(延暦21年)、奥地へ逃げ込んで抵抗を続けていた賊将大墓公阿弖流為と盤具公母礼等が、部下五百余人を率いて投降してきた。阿弖流為は、第一次の征討軍を北上川で撃破した猛将で、その名は朝廷でもよく知られていた。造陸奥国胆沢城使として現地に赴いていた坂上田村麻呂は、4月15日二人を伴って平安京に上り、天皇に報告した。
現地の状況に詳しい田村麻呂は、平定した地域の今後の支配?経営を考えるならば、あくまでも強攻策で挑むよりも、ここで蝦夷側と和平を結び、有力な賊将の力を活用した方が得策であると判断したに違いない。
ところが宮廷人は、田村麻呂に率いられた賊将二人の姿を見て、蝦夷の征討が完全に成就したものと見なし、百官は蝦夷平定を祝賀する上表を天皇に奉った。さらに8月に入って、賊将の処分が問題になったとき、田村麻呂は二人の命を助けることを懸命に申請したが、公暁達は、「申請によって奥地へ放還するのは、虎を養って患いを遺すようなものだ」と主張して強硬に田村麻呂の申請を退け、二人の賊将を河内国杜山において斬刑に処した。
(いつの世も、現場を知らぬ者のために、第一線の者は泣かされる)
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蝦夷征討
prating
2008/5/18镜像同步0 回复
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