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这是一条镜像帖。来源:北邮人论坛 / japanese / #22830同步于 2008/5/31
Japanese机器人发帖

南朝の奮戦

prating
2008/5/31镜像同步0 回复
当事者1:北畠親房 当事者2:楠木正行?楠木正儀 当事者3: 時代:南北朝時代 年代:1336年(延元元年?建武3年)10月10日~1392年(元中9年?明徳3年)10月25日 要約:後醍醐天皇が京都を脱出し始まった南北朝は、反幕勢力を糾合して勢力を保っていたが、次第に勢力が衰え足利義満によって統一される。 内容: 南北朝の成立 1336年(延元元年?建武3年)5月25日、南朝の主力軍である楠木正成が湊川の戦いで敗死すると、後醍醐天皇は比叡山延暦寺に避難した。そこで足利直義は6月5日より比叡山を20日間にわたって攻撃した。 6月14日、光厳院?豊仁親王を奉じて足利尊氏が入京。時期が悪いと察した後醍醐天皇は10月10日尊氏と講和し、神器(偽物説あり)を光明天皇に渡すと、すぐに姿を眩まし、行宮を吉野山にすることとした。ここに五十年に及ぶ南北朝の対立が始まった。 北畠顕家 南北朝騒乱期の初期の合戦で、南軍では北畠顕家の戦いぶりが一際光を放っている。 北畠顕家は、建武の新政が始まると、僅か十六歳で陸奥の国司に任ぜられ、奥羽地方の経営に努めた。その後の1335年(建武2年)足利尊氏が叛くと、奥州軍を率いて西上の途につき、鎌倉を占領して後、長駆して京都に赴き尊氏軍を西海に追い落とす大きな原動力となった。1337年(延元2年?建武4年)後醍醐天皇の指令に応じ、二度目の西上を果たしたときも、鎌倉の足利勢を一蹴し、次いで美濃の青野原(現在の大垣市)に足利の本体と戦い、これを敗走させている。 その顕家が1338年(延元3年?建武5年)5月、後醍醐天皇に対して痛烈な諫奏を行っている。 諫奏は全部で六ヶ条からなる。以下抜粋 貴族?武士?女官?僧侶などの中に政務に容喙して新政を汚す輩がいる。 朝令暮改が甚だしく民は何に従ったらよいのか困っている。 天皇と貴族の本来あるべき関係の復活。 このように、後醍醐新政の陥った秕政を的確に顕わしている。南軍の中心人物の言葉であるので如何に南朝の政治が混迷していたかが窺える。 この中で、この諫奏の最大の項目は、貴族の一員として古代律令制の視点に立ち、天皇と貴族の関係の復活を後醍醐に促すことであったようである。この諫奏が、もし容れられなければ自分も陛下のもとを去ると結ばれている。 1338年(延元3年?建武5年)5月22日、顕家は和泉堺浦?石津で高師直と戦い、21歳の短い一生を終えた。 南朝再建計画 1338年(延元3年?建武5年)は、吉野山の南朝にとり悲運の年であった。頽勢挽回の切り札として期待されていた北畠顕家が奥州軍を率いて西上を果たしたものの、5月22日討ち死。又、北陸で足利軍を相手に奮戦していた新田義貞も敗軍のうちに自害。南朝の軍事力を担う二本柱が相次いで失われたのである。 しかも、その頃京都では足利尊氏が征夷大将軍に任じられた(8月11日)という情勢も伝わってきた。南朝の衰退は傍目にも著しい。地方の勢力に期待をかけ、その再建に努めることになるが、その時最も重要視されたのが奥羽地方であった。 1338年(延元3年?暦応元年)の半ば過ぎ、南朝の支配圏にある伊勢の大湊は時ならぬ造船ラッシュに沸き返った。陸路は足利方に抑えられているため、地方再建計画を実施するにあたり、南朝が海路渡海戦術をとることにしたのである。 やがて9月、五十余艘からなる南朝の船団は威風堂々と大湊を出航した。その船上には後醍醐天皇の皇子義良親王北畠顕家の弟北畠顕信、百戦錬磨の老将結城宗広、それに南軍の参謀長格の北畠親房らが一堂に会していた。 しかし運命はどこまでも、南朝に対して過酷であった。出航して七日余り、天龍灘にさしかかったあたりで船団は暴雨に巻き込まれて四散し、ほとんどの船が伊勢に吹き返されてしまったのである。足利方の領土に漂着して殺される者も出たし、辛うじて親房が目的地に近い常陸国東条浦にたどり着けたに過ぎなかった。 上陸した親房は、ひとまず地元の豪族小田治久を頼り、小田城に籠もった。そして各地の土豪武士に檄を飛ばし、しきりに南朝勢力の新興をはかった。この時親房が最もあてにしたのは、宗広の子の結城親朝である。しかし、親朝は起たず、親房の孤軍奮闘もついに実を結ばなかった。 藤氏一揆 1338年(延元3年?暦応元年)、常陸国に渡った北畠親房は小田治久の支城神宮寺城に入った。しかし神宮寺城は常陸守護佐竹氏に攻められて落城したため、親房は小田氏の本城小田城に移った。以後、親房はこの小田城に拠り、反幕勢力の結集に努める。 一方、幕府は、親房の行動を放置するわけにもいかず、高師直の従兄弟高師冬に大軍を預けて常陸に派遣した。その為常陸南軍は次第に振るわなくなってゆく。ちょうどそんな折り、親房の立場を一層悪くする出来事が、畿内で発生した。 近衛経忠といえば、後醍醐天皇のもとで関白に任ぜられた南朝の重臣である。その経忠が1341年(興国2年?暦応4年)、吉野から京都に戻り不思議な動きを始めた。 その大筋は、藤原氏の子孫を称する関東の豪族、小山氏?小田氏に呼びかけて藤氏一揆(藤原氏同盟)結成し、親房とは別の戦線を作り上げて、それが成功したなら経忠自身が天下を取り、小山朝郷を関東管領にする。要するに北畠親房を排斥しようというのである。 では何故、経忠は藤氏一揆を企てたのであろうか。 いくつかの説がある中で、一番蓋然性の高いのが、当時の南朝内部に主戦派と講和派の対立があり、それが拗れて藤氏一揆となったと想定する説である。この場合主戦派は親房である。 いずれにしても、この藤氏一揆は運動としてかなり域に達していたようで、翌年に持ち越されている。さらにその翌年、小山朝郷が護良親王の子の興良親王を奉じて親房とは別行動をとるようになったのも、藤氏一揆の影響ではないかと言われている。 因みに親房が常陸にいられなくなり吉野に戻ったのは、その年の11月の事である。 四条畷の戦い かって、楠木正成は湊川の戦いに赴く途中、嫡子の幼い楠木正行に対し、 「最後まで後醍醐天皇に忠節を尽くせ」 と、桜井の駅で訓戒し、後事を託して河内に帰らせた。 その正行は立派に成長し、南軍の中心的存在に育っていた。1347年(正平2年?貞和3年)南朝が畿内における大がかりな反攻を計画すると、常にその最前線にあって各地に転戦し、幾つかの戦績をあげた。中でも、細川顕氏?山名時氏の連合軍を住吉?天王寺に連破したことにより、幕府の心胆を寒からしめ、その為幕府は畿内南軍の制圧に本腰を入れざるを得なくなる。 幕府は1347年(正平2年?貞和3年)12月大規模な軍事動員令を発令した。 先方は高師直?高師泰兄弟、その後に佐々木?細川?仁木?今川?武田他の諸将が東海?東山?西国の大軍を率いて続き、足利直義もまた石清水八幡宮に進んで陣を構えるといった物々しさである。 これに対し南朝では、正面からの迎撃を正行に命じた。兵力から見て、それはとても無理な作戦であったが、命令では致し方がない。正行は死を決してその命を奉じ、出陣に先立って吉野如意輪寺に参詣、その壁板に鏃で辞世の句を刻んだ。 「返らじと 兼ねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」 「太平記」に伝える話しであるが、如意輪寺には今でも、「正行公辞世の扉」が伝わっている。 1348年(正平3年?貞和4年)正月、正行は吉野山を降り、四条畷に師直の軍と対陣した。圧倒的な兵力差であったから、作戦としては真一文字に師直の本陣を目指す以外にない。 戦いはその通りに展開し、正行は直線的に敵陣を切り抜けて師直の顔が見えるところまで突き進んだ。だが、多勢に無勢、その上矢を射られて深手を負ったため、それ以上進むこともならず、弟の楠木正時と差し違えて自害した。正行を失った南軍の打撃はいかんともしがたかった。 しかし、親子で一命をかえりみず、誠心誠意南朝の為に尽くすという行為は、日本人の琴線に触れますね。さらに、現場を知らぬ上司に無理な戦を強いられても逃げ出さず、勝ち馬に乗ろうとせず、自分の持てる力を振り絞った行為は、古の修身の教科書に載るのも頷けますね。(太平記に書いてある事が全て本当なら、彼らは偉人ですね) 正平の一統 足利尊氏と南朝との講和は1351年(正平6年?観応2年)11月2日に成立した。尊氏の側が全面降伏と見える大幅な譲歩をしたからである。 それに伴って北朝の崇光天皇は、上皇とされ、観応という北朝の年号も廃されて南朝の年号正平に統一された。そこで尊氏と南朝の講和を正平の一統と呼ぶ。 尊氏は講和がなった翌々日の4日、南朝の後村上天皇の発した、足利直義追討の綸旨を懐中に、京都を出陣した。(南朝に背後を突かれる心配を排除したつもりであった) だが、南朝側は逆に、尊氏不在のこの時こそ京都回復の絶好の機会であると見て、強硬派北畠親房が京都への出兵を指令する。やがて楠木正行の弟の楠木正儀らに率いられた南軍は賀名生(あのう)を出て続々と京都周辺に集結した。 これを知って驚いたのは京都の留守を預かる足利義詮である。取る物もとりあえず使者を送って南朝の違約を責めたが、効果無し。とうとう閏2月京都を追い出された。 代わって入京した南軍は、北朝の光厳?光明?崇光の三上皇を捕らえて賀名生に幽閉し、一時的に大きな戦果をあげることができた。しかし、その勢いは三ヶ月と保てず、南朝は優位の内に両朝統一を実現できる折角の機会を自ら棒に振ることとなった。 楠木正儀の変心 楠木正儀は、父正成、兄正行と較べると、その印象度が低いことは否定しがたい。父と兄が華々しい戦死を遂げて、「太平記」にヒーローとして描かれたのに対し、正儀はほとんど主役として登場せず、おまけに最後も明かではない。しかも、結果として父と兄が尽忠の人であったのに対し、正儀は途中から節を変じ、幕府に帰順した。そんな要素が重なった結果だが、逆に見ると正儀は父と兄のスター性の為に割を食ったと言えないこともない。 しかし、歴史的人物として正儀を見てみると、父正成には及ばないにせよ、少なくとも正儀は兄正行とは殆ど遜色無く、むしろ上では無かったかとさえ思われる。ことに政治的柔軟性、幅広い視野に立つ現実的大局観(悪く言えば風見鶏、勝ち馬に乗る、志を変える)という点では、正行より余程優れていたようである。(つまり、軍人と言うより政治家) そして、その端的な例証となるのが、他ならぬ幕府への帰順という行為である。 正行の戦死後、楠木一族の棟梁となった正儀は、必然的に畿内南軍の主力とされ、もっぱら幕府軍との戦いに明け暮れた。それだけに、幕府軍の精強さが身にしみてよく分かり、正儀はかなり早い時期から、このまま戦いを続けてじり貧に終わるより、一刻も早く講和を結んで南朝の保全をはかるべきだ、と考えるようになっていたようである。因みに、幕府は当初大覚寺統を否定するつもりはなかったのだから、現実のバランスを直視する限り、正儀のこの考え方は間違ってはいない。 講和を優先する正儀のこの考え方は、南朝内部でも一応注目されていたらしいことは、南軍の主将であるにも関わらず、その正儀が幕府との講和交渉の使者に選ばれている事からもうかがえる。つとに1350年(正平5年?観応元年)足利直義が和を申し込んだ時、南朝の連絡役は正儀だと見られるし、1366年(正平21年?貞治5年)から将軍足利義詮のおこした講和交渉で南朝を代表して折衝にあたったのも正儀である。 では、何故この時期に正儀は南朝を捨てたのであろうか。それについては、その前年後村上天皇が没し、南朝の次の皇位に寛成親王が即位したことが示唆的である。長慶天皇はその存在が多くの謎に包まれているが、徹底抗戦を主張する南朝強硬派の代表だったようである。その長慶天皇が出現したため、南朝内の講和派は沈滞し、その結果として元来の講和派たる正儀は南朝に留まりづらくなったと思われる。 ともあれ、正儀の脱落により、南朝が回復不能の痛手を受けた事だけは間違いない。 (楠木正儀は細川頼之に懐柔され、南軍を去ったが、その頼之が康暦の政変で失脚すると正儀は幕府に残りづらくなり、南朝に帰順している。本当の理由はどうあれ、ここまで節を屈しては太平記に嫌われるのも頷ける) 南北朝合一 1392年(元中9年?明徳3年)10月28日、既に冬の気配の濃い吉野山中を黙々と下山する一行があった。将軍足利義満の和平提案を受け入れて京都に赴く後亀山天皇と供の人々の行列である。行列と言っても、従うのは直衣姿の公家が17名と武装した武士が26名、合わせて40人余りで、その行装は余りに侘びしかった。 南朝の一行は、吉野路から大和路を経て閏10月2日京都に着き、その夜は嵯峨の大覚寺に泊まった。大覚寺は南朝の源流の大覚寺統の御所の置かれた由緒ある寺院である。しかし後亀山天皇は直ちに内裏に迎え入れられなかった事に一抹の不安を覚えたようである。 幕府と南朝の講和交渉は将軍義満の代になってからも、度々行われていたようである。それが今回実現したのは、南朝自体が完全に行き詰まっていた上に、幕府が南朝の面目を重んじる条件を呑んだからである。 講和条件 後亀山天皇は、「譲国」の儀式を持って三種の神器を後小松天皇に授ける事。 今後の皇位は、大覚寺?持明院両統の迭立とすること。 落ちるところまで落ち込んだ南朝にとり、これ以上好条件は望めないといって良い内容である。 しかし、入京第一夜に感じた後亀山の不安は、数日としないうちに的中する。閏10月5日、折から降りしきる雨の中を、神器だけが大覚寺から土御門内裏に渡され、講和の条件に言う「譲国」の儀式はあっさり否定された。それは同時に、後亀山の正統の天皇として認めるという暗黙の諒解も、空手形に終わったことを意味する。 後亀山は激怒したが、神器を渡してしまった以上、全ては後の祭りである。一方の義満にしてみれば、かねての筋書き通り事が運んだに過ぎず、以後、合体の諸条件はなし崩しに無視されるばかりであった。 (諸行無常、長い物に巻かれるときには細心の注意が必要?????)
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