返回信息流当事者1:後鳥羽上皇
当事者2:北条義時
当事者3:
時代:鎌倉時代
年代:1221年(承久3年)5月14日~1221年(承久3年)7月13日
要約:朝廷と鎌倉幕府の戦い。幕府が勝利し以後幕府権力が確立
内容: 公家勢力の権威の回復を図るため、後鳥羽上皇は幕府打倒の機会を窺っていた。その時鎌倉では将軍源実朝暗殺があり、後鳥羽上皇は ”幕府は内紛によりかなり混乱している” と思ったようである。(実状は北条家が ガッチリ幕府を押さえて動揺は殆ど無かったようである)
さらに,後鳥羽上皇は摂津国長江?倉橋両荘園の地頭罷免の要求を幕府から厳しくはねつけられ、怒り心頭に発していたようである。
この様な状況の中、院ノ執権と呼ばれた藤原光親?二位法印尊長?藤原秀康らが挙兵計画を練った。しかし 朝廷の大勢はその計画に反対であったようである。
何故、朝廷では戦のプロである幕府と戦争で決着を付けようとしたのであろうか?
現在の目で冷静に見れば、この戦は無謀そのものである。戦争の素人の政治家が軍人に戦争を仕掛けたようなものだからだ。この考えが出てきたのは「院宣」「宣旨」を絶対視していたからのようである。「北条義時追討の宣旨 が出された以上、義時に従う者は千騎とおりますまい??」というような、楽観論が交わされているし、事実としても在京御家人は殆どは宣旨を奉じて上皇軍に加わっているのである(在京の御家人だけ)。北面? 西面の武士、御家人として組織されていない西国の武士、在京御家人を合わせると数字の上では充分幕府と拮抗できるのだ。
しかし、現実は甘くはなかった。後鳥羽上皇は「院宣」よりも、「いざ鎌倉」の方が強いことを見せつけられた。関東の御家人は朝敵となることを恐れず北条義時に従い十九万の大軍で上京したのであった。ご恩と奉公により幕府と利害が一致している御家人は、院宣という権威よりも土地の安堵という利害を取ったのである。
確かに、後鳥羽上皇が軍の先頭に立って出陣されたら、結束の固い御家人も降伏したのではないかという説もある。しかし事実は後鳥羽上皇は先頭に立たず、朝廷は負けたのである。北条政子が動揺した御家人を前に演説して戦意を高揚させて御家人の結束を守ったことも勝因としては重用である。旧権威は失墜した。
この乱の敗戦により、後鳥羽上皇は隠岐国に配流。順徳天皇は佐渡国に配流となる。
戦後処理として、幕府は六波羅探題を設置し京を監視し、それまで勢力の及ばなかった近畿以西の国も勢力 基盤の中に入れた。又新補地頭を設置し旧勢力を少しづつ駆逐していった。
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承久の乱
prating
2008/5/27镜像同步0 回复
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