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这是一条镜像帖。来源:北邮人论坛 / japanese / #24307同步于 2008/6/14
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長篠の戦い

prating
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当事者1:武田勝頼 当事者2:織田信長 当事者3:徳川家康 時代:戦国時代 年代:1575年(天正3年)5月20日~1575年(天正3年)5月20日 要約:織田信長は、武田勝頼の「若さ」を利用して、最強の武田騎馬軍団を壊滅。武田氏はこの戦により滅亡への坂を転がり落ちて行く。 内容: 長篠の戦いの時代背景 1570年(元亀元年)~1573年(天正元年)、織田信長は窮地に立たされていた。北近江?越前には、浅井?朝倉連合軍。東には、甲斐?信濃?駿河の三国を領する武田信玄という戦国時代を代表する武将が上洛を狙う。京では信長の武力で将軍となった足利義昭が、自立して信長を排除しようとしていた。さらに悪いことにこの三者はお互いに連携を持って信長に対抗しようとしていた。悪いことはこれだけでは無い。当時の政治?武力の大勢力であった本願寺がこの三者と結んでいたのである。 これに対し信長は、各勢力の個別撃破を画策した(三者が一体となって信長に攻めかかれば、"鬼神"信長と言えども、対抗は非常に困難である)。まず1570年(元亀元年)6月28日姉川の戦いにおいて、浅井?朝倉連合軍を撃破した(この戦いで、浅井?朝倉は弱体化したが未だ勢力を温存している)。本願寺光佐は諸国の一向宗門徒に信長撃破を呼びかけ1570年(元亀元年)9月12日、京に滞在する信長の陣所を門徒に襲撃させている。これに呼応して9月20日浅井?朝倉連合軍は、南近江宇佐山城を攻撃し、城将森可成?織田九郎信治が討死している。1570年(元亀元年)12月14日戦況の不利を悟った信長は正親町天皇を動かし勅命により浅井?朝倉連合軍と和している(朝倉攻めの時裏切った浅井氏を心底憎んでいた信長が和議をするとは、この時は本当に困難な時であったのであろう)。次に1571年(元亀2年)には、信長の中立要請にも関わらず浅井?朝倉軍を庇い比叡山に両軍を籠もらせた延暦寺を焼き討ちしている。この事件は政治に介入する宗教勢力を排除するという側面を持つが、直接的には信長包囲網の一角を崩すという意味合いの方が強いと思われる。と、この様に信長包囲網が連携する前に、一角毎に撃破している。しかし、信長の最大にして最強の敵が現れる。武田信玄である。それまでは、苦戦しながらもそれぞれの敵を撃破しているが、今度はそうはいかない。 1572年(元亀3年)10月3日、遂に信玄が徳川家康の領国三河?遠江に侵攻してきたのだ。犬居?二股をおとして徳川家康の拠る浜松城にせまった。信長の元には11月下旬注進があり、信長はすぐさま平手長政ら三千を援兵として浜松に送った、しかし家康軍は八千、織田軍と合わせても一万一千の兵力でしかない。対する武田軍は二万五千。兵力比だけではない。当時の武田軍は最強の騎馬軍団を持ち、それを戦の天才信玄が率いているのである。1/2以下の兵力で勝てるはずがない。その事を知らぬ信長では無い、信長は家康を捨て石にして時間を稼ぎ、この窮地を乗り越えようとしていたと思われる。歴史は人々の予想通りに進み、三方が原の戦いは家康の惨敗に終わった。予想と反したのは信玄が浜松城に籠もる家康を攻撃せず、素通りしたことだけである(家康は空城の計を用いて城の門を開け放った為、信玄は警戒して攻めなかったと言われているが、老獪な信玄がそのような子供だましに惑わされたとは考えにくい、この時既に病に犯されていた信玄は先を急いだだけであろう)。しかし天は信玄を見放した。1573年(元亀4年)4月12日織田軍との直接対決を目前にして信玄は没してしまうのである。 信玄死後 信玄の死により、信長は最大の窮地を脱した。浅井?朝倉?石山本願寺?松永?六角?長島一向一揆?毛利を含む反信長包囲網を作り上げ、1572年(元亀3年)には三方が原で織田?徳川連合軍に完勝したとき、信玄は織田信長に勝ったと確信したであろう。その信玄の死亡である。この時信長は天下一統が現実の政策として頭に浮かんだのではなかろうか。 信長は信玄没後矢継ぎ早に行動を起こす。1573年(天正元年)7月18日将軍足利義昭を追放、8月18には朝倉、8月27日には浅井を滅ぼした。信玄の死で動きを止めた信長包囲軍を瞬く間に各個撃破したのである。ところが奇妙なことがある。包囲網に対する攻略スピードに比し、信玄亡き後の武田家を継いだ武田勝頼への攻略スピードがあまりにも遅すぎるのである。即ち1574年(天正2年)正月には勝頼が明智城を包囲、信長は「御馬をだされ」たが間に合わず、さらに6月19日にも同じようにして東遠江最大の要衝高天神城が落とされた。何故だろう。勝頼が出てくると、恐れて撤退している。確かに三方が原の戦いで完敗しているので、武田氏に対して恐れを抱いているのも事実であろう。しかしそれを逆手にとってのではなかろうか。三方が原の戦いで圧勝した武田軍の強さを知る勝頼を自信過剰の罠に陥れ、無理な戦闘に誘い出すことこそ信長の真の狙いであったと思われる。武田の騎馬隊の強さは世に聞こえていた。この強敵に向かうには相手に無理な戦いを強いることこそ最上の作戦である。しかし、たとえ武田軍に無理な戦いをさせても、もし正面衝突したならば、それでも織田軍が敗れる可能性がある。そこで信長が考えたのが、鉄砲隊の利用である。良く知られるように鉄砲に対する信長の造詣は深かった。1549年(天文16年)斎藤道三と対面したときに、鉄砲五百挺を持っていたという記録がある(公記)。1549年と言えば鉄砲の種子島伝来から僅か6年しか経ていない時期である。その後も堺や近江国友の大生産地を握っている。他の戦国大名に比し、鉄砲の保有量は群を抜いていたのだ。 一方三河の古文書によれば「一武具之内別面弓?鑓?鉄砲等の用意簡要之事」と信玄が1567年(永禄10年)に分国に出した条目にあるように、武田軍では鉄砲は家臣の自己負担となっている。信長が足軽に与え、戦略の一環として捉えていたのに対し、武田側ではあくまで ”大事だぞ、揃えておけよ” というぐらいであった。この差は余りにも大きい物であった。 長篠の戦い(長篠城攻囲戦) 1575年(天正3年)4月21日、武田勝頼が動いた。三河の長篠城攻撃である。この長篠城はもともと徳川氏の勢力下にあったが、1571年(元亀2年)に武田領になり、天正元年(1573年)に再び徳川方に属していた。 この時徳川家康は、長篠城に奥平信昌を入れていた。信昌は1573年(天正3年)に武田氏を裏切り徳川氏に寝返ったばかりの部将である。いかに戦国時代と言えども、もう一度武田氏に寝返る事はかなり困難である。そのため信昌は武田軍の猛攻にも死守せねばならない運命を背負っていた。運命は誰もが予想した通りに進んだ。武田軍は長篠城を総攻撃し、その中で鳥居強右衛門の決死の救援要請が行われたのである。 前年6月に信玄さえ落とせなかった高天神城を落とした勝頼は自信満々であった。「彼陣へ乗懸、信長、家康両敵共、此度可達本意儀案内候」というように自信を膨らませていた。織田軍をなめきっていた若武者は罠にはまり始めていたのである。武田軍の中にも勝頼の自信に危惧を抱いている者もいた。「勝頼公無理なる御一戦遂げられ候はゞ、面々かたかた皆討死候て、其後武田家滅亡疑いなし」と高坂弾正や内藤昌豊が口を揃えて進言している。だが勢いに乗る若者に老臣達の言葉は無に等しかった。戦況が有利なときの慎重論は通らない。運命の歯車が回り始めた。1575年(天正3年)4月21日、勝頼は長篠城を攻囲。5月6日、二連木、牛久保攻撃後、徳川家康在城の吉田城攻撃。 一方信長は、5月13日、いよいよ対武田戦に出陣した。筒井順慶や細川藤孝などに鉄砲を供出させながら進み、5月18日には長篠城西方の志多羅の郷(設楽ヶ原)に布陣し、極楽寺山に本陣を置いた。其の数三万。着陣した信長は、「馬に当てられては叶はじとて、先ず陣取の前に柵逆母木を丈夫に付けさせらる」と馬防柵を設けた。 一方勝頼は、織田?徳川軍が接近すると、19日夜、長篠城の攻囲を解き、一部を鳶ノ巣山に置いて、主力は寒狭川を越えて設楽ヶ原北の清井庄付近に本陣を設定した。其の数一万五千。ここでも武田軍内部では決戦回避論があった。馬場美濃守?内藤修理?山県三郎兵衛などが誠を尽くして勝頼にこの戦いを避けるように進言する。だが信長を馬蹄にしく夢を抱く勝頼は、跡部大炊助が主張する主戦論を採用する。サイは投げられた。 長篠の戦い(設楽ヶ原の戦い) 5月20日夜、織田?徳川軍の別働隊酒井忠次、金森長近らが鳶ノ巣山(武田軍の後方攪乱)に向かい、合戦は動き始めた。5月21日午前六時、武田軍と織田軍は連子川を挟んで対峙した。高台に位置した武田軍は戦国一の騎馬隊で駆け下りて織田軍を粉砕する作戦だ。一方織田?徳川連合軍は、互い違いに三重の馬防柵を連子川沿いに並べさせ、三千挺の鉄砲隊(千挺説もある)を五隊に分け、馬防柵に後ろに配置した。信長の作戦は、「敵馬を入れ来らば、際一町まで鉄砲撃たすな。間近く引請け千挺づつ放ち懸け、一段づつ立替立替打たすべし。敵猶強く馬を入れ来らば、ちっと引退き、敵引かば引付いて打たせよと下知し給ひ」というものであった。織田?徳川軍は左翼の佐久間信盛隊と右翼の大久保隊を武田軍を誘き出す為に、柵外に出す。これを見た武田軍は先鋒の山県昌景が三千余騎で高台を駆け下りる。合戦の火蓋が切って落とされた。駆け下りた山県隊が見た物、それは高い馬防柵とおびただしい鉄砲隊だった。柵におびえて馬が立ち上がる。同時に鉄砲が火を噴く。山県隊は人も馬も一緒に次々撃ち倒される。怯まぬ山県隊は馬防柵の右側面への迂回を試みるが、猛将大久保忠世に押し返される。この一番隊の戦いが長篠の戦いの全てを象徴していた。 二番隊武田信廉、三番手小幡信貞、四番手武田信豊、五番手馬場信晴、音に聞こえた武田の武者達が、名も無き足軽の鉄砲に倒れて行く。午後二時頃、信長の総攻撃命令が出る。滝川一益を一番手とする織田軍。猛々しさをうたわれた徳川家康配下の三河武士団が次々に武田軍に打ちかかる。勝頼本陣の旗がくずれ、勝頼は主従六旗で落ちていった。 「人は城、人は石垣、人は堀」とうたわれた武田軍は、わずか八時間で壊滅した。この戦の人的損失は二度と取り戻すことが出来なかった。 長篠の戦いの意義 長篠の戦いにおける信長の勝因は何であったのか。戦略的には最後の最後まで勝頼を過信に追い込み、半数の兵力で無理な決戦を強いることに成功した事が挙げられる。さらに勝頼は用意周到の馬防柵に中に突撃しなければならない理由など無い。君子危うきに近寄らずで、危険だと思えば睨み合い、戦をせずに引き上げる、又は、信長軍が待ちきれずに、馬防柵の前に出てくるのを待てばよいのである。馬防柵のない鉄砲など騎馬隊の敵ではない。にも関わらず勝頼は信長の思惑通りに備え付けの舞台に出てきた。負けて当然である。戦術的には、馬防柵とセットした鉄砲の活用が大きい。従来、鉄砲の集中使用が大きな勝因として挙げられて来たが、鉄砲の集中使用はそれ以前にも見られる(雑賀衆や根来衆)。だが馬防柵とセットは史上初めての試みであった。戦国最強の突進力を持つ武田騎馬隊と戦う上でのキーポイントは、その突進力を如何に鈍らせるかという事にある。障害物の前では馬は立ち止まる。その性質を利用した巧妙な作戦、それが馬防柵であった。突進力が止まれば鉄砲で撃ち倒すのはそう難しくない。 もう一つ、信長の勝因を掲げれば「型のない」織田?徳川軍が、「型を持った」武田軍を敗ったという事である。武田軍は「騎兵突進」という必勝パターンを持っていたが故に、信長の新戦法を予測することも、戦術を転換することも出来ず敗れ去った(というより、家臣達は充分予測していたが、有頂天の勝頼だけが予測できなかったとも言えるが???)。対して、織田?徳川軍は「型のない」いわばなまくら軍隊であるが故に、信長の新戦法への適応が可能であった。 あるいは信長にとって全ての戦いとは、自軍の弱さを強さに変えるための戦いであったかも知れない。奇襲の桶狭間、大軍を利しての姉川、何れもそうであったが、その最高傑作が長篠の戦いに集約されている。
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