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这是一条镜像帖。来源:北邮人论坛 / japanese / #23144同步于 2008/6/3
Japanese机器人发帖

応永の乱

prating
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当事者1:大内義弘 当事者2:足利満兼?今川貞世 当事者3:足利義満 時代:室町時代 年代:1397年(応永4年)4月16日~1400年(応永7年)1月11日 要約:足利義満は専制政治確立のため、西国一の大名、大内義弘 追討を決行。大内氏は反幕派を糾合するが破れ、ここに義満の将軍権力確立は達成される。 内容: 合戦前夜 明徳の乱で六分の一衆である山名氏を制圧した後、足利義満にとって最も目障りな存在となったのは、西国一の大名大内義弘であった。 義弘は当時、明徳の乱の功を賞せられて和泉?紀伊両国を賜り、それ以前に領していた周防?長門?豊前などと併せて、計六ヶ国の守護を兼ねていた。又、南北朝合体の根回しをしてそれが実現したこともあり、その盛名は中央にも鳴り響いていた。 1397年(応永4年)4月16日、足利義満が北山第造営に着手し、その工事負担を守護大名に課した時の事である。今を時めく義満の命令とあって、諸大名は先を争って奉仕につとめたが、ただ一人義弘はこう言って、断固その課役を拒否した。 「自分は弓矢を持って将軍に仕えているのだから、土木のごとき仕事に部下を使役されるのは御免である」 義弘は、そのような気概も併せ持っており、それが一層、義満の警戒心を煽り立てたようであった。 (是年、義満は大内義弘?大友親世に命じて少弐貞頼?菊池武朝を攻撃させている。上記の発言が本心なら、さぞ嬉しかったことであろう) 大内義弘の工作 義満と義弘のこうした緊張関係は、やがて世間にも広く知れ渡るようになり、1399年(応永6年)10月に至ってついに決裂を見た。義弘は分国和泉の堺に井楼四十八、矢倉千数百を備えた方十六町の城塞を築き、兵五千を率いて立て籠もり、公然と幕府に叛旗を翻した。 この時点で、義弘はかなり高い勝算を抱いていたようである。というのは、鎌倉公方足利満兼とは既に連絡済みで、義弘決起と同時に満兼も挙兵する手筈になっていたし、又、丹後の宮田時清(山名氏清の子)、美濃の土岐詮直、近江の京極秀満らも相呼応して幕府方を攻めることになっていたのである。さらに堺の城中には、旧南朝軍の楠木?菊池の一族も顔を揃えていた。要するに義弘は義満の専制に不満を抱く諸勢力を糾合し、その連合戦線をもって幕府に決戦を挑もうとしたわけである。 応永の乱 これに対して幕府では、細川?京極?赤松などの六千騎が堺に先発し、義満も三万余大軍を率いて11月14に京都を出陣した。 戦闘が始まったのは11月29日の明け方である。義弘の軍は十倍近い敵に包囲されながらも善戦した。しかし、東の足利満兼が管領上杉氏の掣肘の為西進できなかった事も誤算となり、堺の城は孤軍奮闘の内に12月21日落城する。幕府軍が城に放った火は、折からの烈しい北風に煽られて、戸数一万を数えた堺の町をみるみる舐め尽くし、その猛火の中で義弘も自刃した。 この戦いを最後に、有力守護の叛逆はしばらく後を絶つので、義満の狙った将軍権力の確立は、ここにほぼ実現された。尚、大内氏はその後、義弘の弟大内盛見が周防?長門?豊前の守護に任じて家名を保った。 応永の乱の黒幕 応永の乱に不思議な点がある。中国地方のの大内義弘と鎌倉の足利満兼がどうやって手を結んだかという点である。ここで出てくるのが仲を取り結んだ黒幕である。 前の九州探題今川貞世である。貞世は九州において華々しい功績をあげたにもかかわらず義満から冷遇されたため、次第に義満に対して批判的になって行き、当時は分国駿河で失意の日々を過ごしていた。そこへ大内義弘から誘いがあったので、かねてから反幕志向を抱く同じ足利一族の足利満兼に共謀を働きかけたのである。前後の事情から察すると、貞世は周囲の情勢如何で自身も挙兵して戦線に加わるつもりであったと思われる。 乱後、貞世は当然の事ながら義満に睨まれ、一時は死罪との噂が専らであった。しかし甥の今川泰範が助命に奔走したお陰で、一命だけは助かった。助命条件は貞世の京都在住、つまり義満の眼の届く所に住むという事であった。ただし貞世自身はその著「難太平記」において、自身が義弘らに荷担したというのは全くの濡れ衣であると弁明している。
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