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这是一条镜像帖。来源:北邮人论坛 / japanese / #21751同步于 2008/5/25
Japanese机器人发帖

保元の乱

prating
2008/5/25镜像同步0 回复
当事者1:崇徳上皇 当事者2:後白河天皇 当事者3: 時代:平安時代 年代:1156年(保元1年)7月8日~1156年(保元1年)7月23日 要約:反主流派の崇徳上皇が後白河天皇と合戦。これに摂関家?源氏と平氏がからみ内乱となる。崇徳上皇は敗れて讃岐国に配流 内容: 保元1年7月2日鳥羽法皇が崩御。臨終に際し崇徳上皇が見舞いに来たが面会できずに帰っている。(崇徳上皇は鳥羽法皇の子息であるが、当時の京童は「叔父子」と呼んでいた)鳥羽法皇は自分の強引な皇位継承が自分の崩御後にどのような事態を招くか知っていたようで、是年の6月1日源義朝以下の源平の武士に院宣を下し鳥羽殿と皇居高松殿に宿直して警護させている。崩御から三日後の7月5日検非違使に綸旨を下して京中の武士の行動を規制させ、8日には諸国司に勅して藤原忠実?藤原頼長父子が荘園から軍兵を招集するのを阻止させ、さらに源義朝らを頼長の東三条殿に遣わして、殿中を捜索の上没収させた。東三条殿は摂関家の本邸ともいうべき殿邸で、明らかに頼長に謀反の嫌疑がかけられていたことを物語る。 事態の切迫を悟った崇徳上皇は、9日夜半に鳥羽の田中殿から白河殿に入り、10日公然と軍兵を集め、夕刻には頼長が宇治より参入した。しかし殿中に集まった廷臣は頼長の他に、前参議藤原教長ら2~3人に過ぎず、参集した武士も 源為義とその子源頼賢、平忠正とその子、平長盛らであった。 源為義は三策を献じ、第一には宇治ないしは近江国に退いて後白河天皇方の追討をささえ、東国武士の来援を待つこと。第二には崇徳上皇を奉じて東国に下り武士を招集すること。第三には、以上の二案とも不可ならば、先手を打って皇居に夜討ちをかける事を進言した。しかし(お坊っちゃん)藤原頼長は三案とも不可とした。 源為義が三策を献じている頃、後白河天皇方でも皇居高松殿で平清盛?源義朝らを交えて軍議がこらされ、源義朝の進言する夜討ち策が採用され11日の夜明け前、藤原通憲(信西)の激励を受けて進発した。同時に天皇が高松殿から東三条殿へ移ったのは夜討ちを警戒してのことであろう。白河殿へ向けて進発した軍勢は、大炊御門通りを進む源義朝二百余騎を中央に、平清盛率いる三百余騎は南の二条方面から、足利義康率いる百余騎が北の近衛大路からそれぞれ東進し、三方から一斉に白河殿に攻めかかった。総勢六百余騎を数えるがこれは騎馬の数で、郎党?従者を加えると二倍から三倍であろう。辰の刻(午前八時)には天皇方が火をかけた。上皇方は潰滅状態に陥り軍兵は四散し、崇徳上皇は仁和寺に逃げ込み、藤原頼長は重傷を負いながら父藤原忠実を頼って奈良に落ち延びたが、保身に懸命な忠実は関わりを持つことを恐れて対面を拒否。(瀕死で、かって溺愛した子供を見捨てるとはどうゆう神経してんだ!)7月14日般若寺辺りで落命した。 この乱によって戦局を決定づけた武士の実力と、それと対照的に貴族の無力を白日のもとにさらけ出した。特に摂関家の権威の失墜は著しく、藤氏長者の宣旨を下して関白藤原忠通を氏長者とする。これは当の忠通を困惑させた。(氏長者は天皇に認めてもらうものでなく、一族で決める)これは長年の慣行を無視した内政干渉で摂関家を初めとする貴族に衝撃を与えた。さらに子息の摂関就任に固執する忠実は、結局天皇より若い十七歳の少年藤原基実を関白にするという結果を招き、政局は摂関家の手の届かない所で動き始めた。 この乱後後白河天皇は保元の新制を行い「九州の地は一人の有なり、王命の他、何ぞ私威を施さんや」の言は天皇の親政宣言といっても過言ではない。
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